道標の先
煙の立つ方角へ向かって、二人は歩いた。
近づくにつれ、人の活動の痕跡が濃くなる。踏み固められた道が雪の下に現れ、雪を掻いた跡が道の両側に積み上がっている。木を組んだ柵が断続的に続き、その柵に獣の毛皮が干されていた。毛皮は凍りついて板のように硬く、風に揺れもしない。だが、誰かがそれを干したのだ。人の手が、つい最近、ここにあった。
ラスラフの胸に、人恋しさが湧いた。永冬の荒野をズラータと二人で歩いてきた。眷属に追われ、吹雪に耐え、凍った川を渡った。その間、人の声を聞いていない。ボジダルの「行け」を最後に、他の人間の言葉を。養父の掌の温もりを背中に受けて村を出て以来、ずっと二人きりの世界を歩いてきた。人の声が聞きたい。それは思考よりも先に、体の奥から湧き上がった渇きだった。
遠くから、音が届いた。
犬の鳴き声だった。低く、短く、一声。続いて斧が木を割る音。硬い木に刃が食い込み、繊維が裂ける乾いた音が、風に乗って断片的に聞こえる。人の営みの音だった。生きている人間が、そこで暮らしている音。ラスラフの足が自然と速まった。
「急ぐな」
ズラータが声をかけた。足を止めてはいないが、歩調は変えていない。
「人間が必ずしも味方とは限らない。永冬の中で生き延びている集団は、余所者を警戒する」
正論だった。だがズラータの目は、ラスラフの右手に一度落ちた。痣のある手。言葉にはしなかったが、ラスラフには伝わっていた。集落の人々が嵐の痣を見たとき、何が起きるか。忌み子の烙印は、どこへ行っても同じ反応を引き出す。
ラスラフ自身も、それをわかっていた。十七年間、人の輪の外にいた。鍛冶場の煤けた壁の内側だけが自分の場所で、外に出れば石が飛んでくる。村が違っても、人は同じだ。痣を見て目を逸らし、子どもが指をさし、大人が厄除けの仕草をする。それが変わる保証はどこにもなかった。右手を外套の袖に隠す癖は、いつの間にか身についていた。
煙の匂いが濃くなった。煮炊きの匂いが混じっている。根菜を煮ているのだろうか。甘みのある湯気の匂いが風に載り、鼻腔の奥で、ボジダルの台所の匂いと重なった。根菜の煮込みと硬い黒麺麭。あの粗末な木のテーブル。温かい食事。屋根のある場所。人の気配。その一つひとつが、体の奥にある空洞に反響した。
丘の上から、集落を見下ろした。
十数軒の粗末な小屋が、木と石を組んだ防壁に囲まれている。小屋の壁は丸太を横に積んだ素朴な造りで、屋根には厚く雪が載っていた。防壁の要所には見張り台が設けられ、尖った杭が外向きに並んでいる。永冬に適応した建築だった。守るべきものがあるから、壁を築いたのだ。ラスラフの村にはこれほどの防壁はなかった。この集落は、外の脅威と正面から向き合っている。
煙が各所から昇っている。屋根の隙間から白い煙が漏れ、空に溶けていく。壁の隙間から光が漏れている小屋もあった。灯火の温もりが、灰色の風景の中でぼんやりと滲んでいる。
人の姿が見えた。
毛皮を幾重にも着込んだ男が、防壁の内側で薪を運んでいた。両腕に抱えた薪の束が体の幅よりも大きく、歩くたびに揺れている。小屋の前では女が雪を大きな鉄鍋に入れ、炉にかけて水を作っていた。蒸気が白く立ち昇り、女の顔を覆う。
子どもが、二人いた。
防壁の内側で走り回っている。追いかけっこだろうか。小さな身体が雪を蹴り、毛皮の外套がばたばたと翻る。一人が転び、もう一人がその上に覆いかぶさり、二人とも笑い声を上げた。笑い声が雪の上を滑り、風に乗って丘の上まで届いてくる。
ラスラフは息を呑んだ。
冬の世界でも人は生きている。当たり前のことだった。だがラスラフにとっては、当たり前ではなかった。自分の村は凍え、旅の中で見たのは凍りついた死体だった。灰色の荒野に人影はなく、白い世界は死に支配されているものだと、どこかで思い始めていた。
子どもの笑い声が、もう一度届いた。甲高く、無邪気で、寒さなど知らないかのように弾んでいる。距離があるから柔らかく響き、風に混じって断片的に耳に入る。
胸が、締めつけられた。
自分がいた村では、子どもは自分に石を投げた。笑い声は、いつも自分の背中に向けられていた。嘲りの笑い。囃し立てる声。この集落の子どもたちは、ただ楽しくて笑っている。あの輪の中に入れたら──想いが過り、すぐに打ち消した。忌み子は、あの輪には入れない。入れば壊す。自分がそこにいるだけで、あの笑い声が途絶える。痣を見た瞬間に子どもの母親が腕を引き、男たちが目を険しくする。それは想像ではなく、十七年の経験が教えた確信だった。
「今は通過する」
ズラータが言った。丘の上から集落を見下ろしたまま、視線を外さない。
「目的地はまだ先だ。ヴェレスが示した山脈の方角。関わっている時間がない」
ラスラフは頷いた。反論しなかった。反論できなかった。ズラータの判断を信じているから、ではなかった。それもある。だがそれ以上に、自分自身が「入るべきではない」と感じていた。痣を見た人間がどう反応するか。忌み子の十七年が、それを骨の髄まで教えている。彼らは笑っている。薪を運び、水を作り、子どもが走り回っている。その日常に、自分が触れれば壊れる。
集落を迂回する道を選んだ。丘を反対側へ降り、防壁の外を大きく回る。集落の灯りが背中にある。振り返りたい衝動が、足を引く。振り返ればもう一度見える。あの煙と、灯火と、子どもの笑い声が。
振り返らなかった。
影が前に伸びていた。集落の灯りに背を向けて歩いているから、自分の影が進行方向に長く落ちている。光源が後ろにあることを、影の長さで知る。やがてその影も薄くなり、灯りが遠ざかったことを告げた。
犬の鳴き声が遠くなっていく。風に混じっていた煮炊きの匂いが薄れ、やがて永冬の無臭の冷気に呑まれた。最後まで聞こえていたのは犬の声だった。一声、また一声。番犬が吠え、誰かが叱りつけ、犬が黙る。その繰り返しがだんだん小さくなり、やがて風の音に消えた。
「いつか」
ズラータが呟いた。前を向いたまま、一語だけ。
いつか。今ではない。だが、永遠に無理だとも言っていない。ズラータの口調は淡泊だった。だがその一語の中に、ラスラフの沈黙を聞いていた者の配慮があった。集落を素通りする判断を下したのはズラータだが、それがラスラフにとって何を意味するか、彼女はわかっている。ラスラフは応えなかった。応える言葉がなかった。だがズラータの一語が胸の底に落ち、沈み、静かに留まった。
前を向いた。歩いた。雪を踏む音だけが、二人分、重なった。
集落を迂回する道の途中だった。
ズラータが足を止めた。唐突に、糸が切れたように。
ラスラフは三歩先で気づき、振り返った。ズラータの右手が紡錘を握りしめている。指が白い。爪が掌に食い込むほどの力で、摩耗した木の紡錘にしがみついている。
「どうした」
ズラータの顔から、血の気が引いていた。唇が動いた。声が出るまで、僅かな間があった。
「モコシュ様の声が……」
一瞬、完全に途絶えた。そう言おうとしたのだろう。だが言葉は最後まで紡がれなかった。ズラータの目が大きく見開かれ、焦点がどこにもない。何かを聞こうとして、何も聞こえない。そういう目だった。
すぐに──本当にすぐに──ズラータの表情が戻った。目に焦点が戻り、紡錘を握る手の力が僅かに緩む。だが顔の色は、戻らなかった。
「大丈夫だ。……続けよう」
声は平坦だった。いつものズラータの、感情を排した報告口調。だがラスラフは見ていた。紡錘を握り直す指が、まだ震えていることを。
何も言えなかった。的確な言葉を持っていなかった。ただ、ズラータの横に並んで歩き出した。半歩、近く。




