『そして、時は健やかに・前編』②
梁が北京筋から、公仔という呼び名の“凄腕”の身柄を引き受けたらしい、という噂が組うちで密かに流れたのは──何年前のことだったか。
“大佬が試しにやらせたら、組ふたつ一人でやっちまったってよ”
“──なんだよそれ”
“オヤジが使ってた雙槍神手っていたろ、アイツをヤったのも、その『公仔』だって話さ”
“──大陸の昔の宮廷で使われてた、女の殺し屋『殺手公仔』の生き残りだって、楊のアニキが”
その時、李は噂を鼻で笑い飛ばした。
“ばーか。電影じゃあるまいし──。”
電撃のように蘇った記憶に李は自身の決定的な敗北を悟った。
梁の言う通りだった。
自分は何も分かってなかった。次のボス候補などと周におだてられたのを真に受けた自分が愚かだった。
力なく笑って、李は梁を見た。昔の呼び方が、自然と口からこぼれた。
「大哥……」
李の言葉に一瞬悲しげな表情を浮かべた梁の顔を、李は呆然と見つめていた。
頭の中が痺れたような錯覚。
いつの間にか消音器付きの銃を向けているのが見えた。
李は唇を噛んだ。
(終わるのか──オレは)
引き金が引かれた。
人が咳込むのと似た音が数回したあと、李の身体が跳ねた。
胸に二つ、三つと赤い弾痕が穿たれ、血が跳ねる。
漂う硝煙の向こうに、黄霞は表情の抜けた梁海峰を見た。
(なぜ阿頭は私に全てを任せなかったのだろう)
だが、それは黄霞にはわからないことだった──。
ごぼっ、と李が口から大量の血を吐き出した。
震える李の手に、銃が握られているのが黄霞の目に映った。
李耀明は、まだ絶命していなかった。
震える銃口が、梁でピタリと止まる。
「!──」
咄嗟に黄霞にできることは、頭を抱えて床に伏せるだけだった。
青ざめた顔でぐったりと座席にもたれかかったまま、李は引き金を引いた。
拳銃でありながら、マシンガンのように弾が連射される。
護衛と同じ、オーストリア製拳銃のフルオートモデルだった。
パーカッションの連打にも似た連射音と、跳ねた薬莢同士がぶつかり合う幾重もの金属音。
フルオート拳銃は制御が難しく、瀕死の李では跳ね上がった銃口を抑え切れなかった。暴れた銃口からばら撒かれた弾は梁海峰の身体を幾重にも貫いていた。
引き金を引いたままの、李の掌で暴れた銃は回転して李自身にも弾を浴びせていた。
黄霞に当たらなかったのは、ただの偶然だ。
そして──破局は訪れた。
銃撃が止んだ瞬間、車が急加速し始めた。
身を起こした黄霞は加速によろめいてから運転席を見た。ぐったりして頭を俯かせた運転手の頭から何かが垂れるのが見えた。血だ。
(跳弾した──?)
防弾加工された車体が裏目に出たということだろうか。後席と運転席に仕切りはなく、跳弾は運転手をも貫いたのか。
そのことに黄霞が気づいた時はもう遅かった。運転手の意識がないことで制御を失ったミニバンは、恐らくアクセル全開のまま側壁に接触した。
鋭い衝突音と激しい衝撃のあと、車体が回転し始めた。耳をつんざくタイヤのスキール音。
咄嗟に運転席に向かおうと身体を起こしたが、揺れ動く車体と、回転に合わせた横Gはそれを許さなかった。
重力が失われるような感覚と共に車内で飛ばされ、身体が座席の角に叩きつけられる。
再び、車全体を揺する激しい衝撃と、激突音。
回転が止まらない。姿勢を維持できず、運転席に向かうことも叶わず、黄霞はまたも飛ばされて内壁に叩きつけられた。伝わる衝撃で息が詰まる。
意識が遠のきかけた黄霞の目に映ったのは、後続車のヘッドライトの眩い光──。
異様な長さのブレーキ音が光の方から聞こえた。
激しい衝撃音とガラスの砕ける音が耳をつんざいた。
──そして、目の前が真っ暗になり、何も聞こえなくなった。
冷たい雨が顔に時折かかる。激しい雨音で黄霞は意識を取り戻した。
身体中が重い。どれくらい時間が経ったのか分からぬまま、身を起こそうとして、目を見開いて絶命している梁の遺体の下敷きになっている事に気づいた。
(……! 死んで──いる)
頭の奥でよく分からない感情のざわめきが走るのがわかった。
力を込めて身体を抜き出そうとしたところで、全身に激痛が走る。
「うぅ……」
どうにか抜け出し、黄霞は四肢と五指の確認をした。手も脚も、細かな傷はともかく、欠損や骨折と大量の流血はないようだった。痛みはあるが、かろうじて動けそうだ。
後部スライドドアは衝突の衝撃でもぎ取られていた。
のろのろと車外に這い出た黄霞は一瞬の激しい雨にさらされ、身体に付いた血がいくらか洗い流された。
ミニバンはかろうじて横転を免れていた。だが、どう衝突したのか、激しく損傷しており、そのほぼ正面に見覚えのある青いSUVが派手に前部を破損して停車していた。
あの親子連れの車だった。
黄霞のなかの冷静な部分が、一刻も早くここを立ち去らねばならないと警告し続けている。
だが、黄霞はそうしなかった。理由は分からない。
一瞬ふらついて、よろよろと車体に手をつき、もたれかかるようにしながら、おそるおそるSUVに近づいていく。
「──?」
生臭い雨の匂いに混じって、鼻をつく匂いに気づいた。
しゃがみこみ、車体の下を覗く。ポタポタと垂れる液体の正体に思い当たって、黄霞は戦慄した。
ガソリンが漏れている──。
SUVの運転席部分は完全にひしゃげていて、作動したエアバッグ越しにあの夫婦の姿が見えた。二人はぴくりとも動かず、ドア自体も酷く歪んでいて簡単に開けられそうもない。
試してみるが、車体を揺するだけだった。そのまま後部へ向かう。
全身に走る鈍い痛みのせいで、身体が上手く動かない。何かにつまづいて脚がもつれた。支えようと手をついたせいでSUVのボディが再び揺れる。
「お、かあ……さん──」
かすかにうめき声が聞こえ、黄霞は後部座席を覗き込んだ。
薄暗い車内にあの少女がぐったりとしているのが見えた。気を失っているのか。
車体後部は一見ダメージが少なく見えたが、ガラスにヒビが入っており、頭を打ったのか少女の額から血が滲んでいる。
黄霞はドアを開けた。
シートベルトを外して少女を引きずりだした。意識のない少女の身体は考えた以上に重く感じる。
ハイウェイの照明が照らす薄明かりのなか、改めてそばで少女の顔を見つめて、黄霞は息を呑んだ。
まるで自分自身を外から見ているかのような違和感。
例えようのない、不思議な感覚。
(どうしてこんな……。これは何──?)
黄霞は胸に沸き上がる感覚に戸惑いを覚えていた。
そうじゃない。
ここにいるべきではない。
頭では理解していた。
だが、自分でも説明できない衝動が黄霞を突き動かしていた。
少女の脇の下に肩を入れ、抱えて立ち上がった瞬間、身体に激痛が走った。あばらが折れているのか。
「……っう」
身体の芯を突くような苦痛に表情が歪み、思わず声が漏れた。
「……おと、さ……ん、おかあ……さ」
抱えた少女がかすかに呻いた。
日本人だと気づき、黄霞は日本語で少女に語りかける。
「しっかり、して。……大丈夫──だから」
黄霞の言葉に反応したのかどうかわからないが、少女がかすかに虚ろな視線を黄霞に向けた。
「?……あな……たは……? わ……たし……?」
焦点の合わない瞳で、少女はうわ言のような呟きを漏らした。
「……きすみ、ゆう……か」
「えっ?」
不可解な言葉に聞こえて、黄霞は一瞬困惑した。
「わたし──は、きす……み、ゆ……う、か、で……す」
か細い少女の呟きが名前と分かって黄霞は語りかけ続けた。
「名前ね? ユウ……カ? なんでもいいから……しゃべって。
眠っては──だめ。
わたしは……うぉん・はー。ユウカ?」
「ん……いた、いよ……おじ……い、ちゃ……」
かすかなユウカの声は、そこで途切れた。
のろのろと、肩で担いだユウカを引きずるようにしながら、道路の端に近づいていく。
黄霞のなかで、こんなことをしている場合ではない、という警告のような思考が止まらない。だが、黄霞は湧き出てくる訳の分からない衝動に抗えなくなっていた。
覗き込んだユウカの顔色は白っぽくなって見えた。自分と同じ顔をした少女の命が、いま、消えかけている──。
「──ユウカ……⁈」
呼びかけにユウカの返答はない。
(……私は? どうしたらいい?)
力が入らず、足元が揺れる。
頭が、熱い。
けれど、それ以上に胸の奥で何かがきしんでいた。
わからない。
自分でも、なぜなのか──わからない。
けれど、目の前の命が消えていくことに、耐えられなかった。
黄霞の中に車窓越しのあの出来事が蘇る。
ユウカの──笑顔。
不意に沸き起こった、熱く重いものが胸を締め付ける。
唐突に視界がぼやけた。
目頭が熱くなり、温かいものが目に溢れて、顔を伝う。鼻の奥がつんとする。
雨や汗ではなく、黄霞が今まで体験した事のない現象──。
そして、もはや黄霞自身も限界に達していた。息苦しくなり、荒い呼吸音に耳が支配される。
──背後で小さな爆発音がした。それをきっかけに連続して小爆発が続いたあと、融合したかのように車二台の炎上が始まった。
赤い炎が夜空を照らし、黒煙が不気味に揺れる。
沸き起こった熱風に押されるように黄霞の脚がもつれて、二人の少女はその場で倒れそうになった。
瞬間、黄霞はユウカを庇うかのように最後の力を振り絞り、彼女を抱きしめるようにして、倒れ込んだ。
二人はまるで抱き合って眠る双子の人形のようだった。
暗闇のなか燃え盛る炎の煌めきに照らされたその姿は、ひとときの安らぎを見つけたかのように見えた。




