『そして、時は健やかに・前編』①
帰宅した悠霞は、制服から部屋着に着替えると、ポニーテールの髪を下ろしてベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めていた。
自分でもよく分からない気怠さが、悠霞の心を縛りつけているようだった。
どれくらい、そうしていたのだろうか。
突然の激しい雨音が耳を刺し、身体を起こして窓の外を見た。
いつしか日が暮れて闇に包まれたなか、大粒の雨が窓に叩きつけられる。
「雨……?」
(あの夜も、同じような雨だった)
──夕闇の豪雨。
ヘッドライトの煌めきで黒光りする路面。
フラッシュバックする──記憶。
部屋の灯りで窓に映し出された自身の顔が闇の中に浮かんで見えた。切れ長の瞳をした長い黒髪の少女。
(あの子は、一瞬微笑んだ)
──車窓越しの視線。
刻が止まった瞬間。
“?……あな……たは……? わ、たし……?”
どん、と風の勢いで雨粒の塊が叩きつけられて窓が揺れた。
──加速するエンジン音。離れていく少女の顔。
そして、するはずのない、かすかな──血の匂い。
窓ガラスに映し出されたのは、長い黒髪をアップの巻き髪にした鋭い眼差しの少女。かすかに煌めく嘴型のクリップが、その髪を彩っていた。
“わたしは……うぉん・はー。ユウカ?”
“わたしは”
“わたし”
“私は”
窓の外で一段と雨足が強くなった。
「私は……。黄霞」
言葉が自然と──漏れた。
叩きつける豪雨の音と、濡れた路面から跳ねる水飛沫の音が混じり合ったノイズが、かすかに車内に響いていた。
淡いオレンジの照明の中。
──隣席の梁海峰が指先に煙草をつまむのに気づいた。
肘掛けで軽くトン、トンと葉を詰めてから口元に咥えるのに合わせて、黄霞はなめらかな手つきでマッチに火をつけ、咥えられた先端にかざした。
梁はライターでは駄目なのだ。紫煙と、マッチのはぜる香りが混じり合い、車内に立ちこめた。
梁は香港黒社会ではその名を知らぬ者はいない実力者だった。
大陸の北京筋にも返還前から顔が利き、それでいて昔気質なやり方を変えることはしない。自身の組を構えて数十年、表稼業も裏稼業もそれで上手くやってきたという自負があった。
「……なんで大佬はオレのやる事に反対するんです?」
漂う紫煙の向こう、梁の真正面に座っている男、李耀明は睨めつけるように梁を見据えていた。その隣、黄霞の正面にいるのは禿頭の李の護衛の男で、一際大柄なせいか、リムジンのように改装されたミニバンの広大な後席空間であってもどこか窮屈そうだった。
男は大陸の元軍人で、流れ流れて香港にやってきたと、梁の資料にはあった。
面白くもなさそうに無表情で、手にしているグラスには一度口を付けただけだった。
どこか拗ねたようにも見える李の表情に、梁は小さく息を吐いた。
「前も言ったが、大陸でも、地方軍区の連中と手を組むなんざ、大したアガリなしで良いように使われるだけだぞ」
降って湧いたハナシに李がのぼせ上がっていることを梁は苦々しく思っていた。
目先の稼ぎに完全に目が眩んでしまっている。
「大陸を利用するのもありだって、オレはあんたの口から聞いたはずですがね? それに、陳だって向こうの電影製作会社と繋がって上手いことやってる。葉だってあっちの工業団地の人材斡旋に噛んでる。なぜオレには難癖を付けるんですか」
苛立ちを隠せない口調でいうと、斜め前の黄霞に空になったグラスを荒々しく差し出した。
受け取った黄霞は氷を追加し、ブランデーを注いで李に渡す。それも一気に飲み干すと、李は続けた。
「大体、オヤジだって大陸絡みとは昔から色々あるじゃないですか」
梁は軽く呆れた表情になった。
「……北京筋とお前さんの言う地方軍区の連中じゃあ、比較になるわけがないだろう」
灰皿に消えかけの吸殻を捩じ込むと、梁の顔から表情が消えた。
「耀明。すまないが……。周は全部白状したよ」
冷徹な響きの梁の言葉に、李は少しだけ目を見開いた。
「……なんの話です」
「周志明、十六軍区後勤部部長だよ。
お前が組もうとしてた相手だ。
目の付け所は悪くなかった。軍区の補給と物流の責任者だからな。談合、横流し、横領、なんでも来いだ。だが」
そう言うと梁は目を閉じた。
若い頃の李の無邪気さを残した顔と、現在の李の顔が一瞬重なって消えた。
李は梁の腹心の中でも、武闘派でありながらビジネス面でも目端の利く、梁から今後を期待されているうちのひとりだった。
ゆっくりと目を開け、李を見据える。
「……北京筋からつついたらすぐにブルって何もかも『うたった』よ。
お前が立てた計画のハナシもな」
梁は取り出した書類のファイルを李に突きつけた。
受け取って慌ただしく中身を見た李が顔面蒼白になる。
さっと目を通しただけで、計画の全貌がまとめられていたのが分かったのだ。
周の軍区に所属する不良軍人を使った梁海峰の暗殺計画。
だが、彼らはすでに逮捕されており、周志明は近日中に失脚することになる、と記載されていた。
「詳しくは見なくてもわかるな。
お前の計画だ。
──だから言ったろう、大陸の連中なぞ信用するな、と」
梁の言葉に答えず、李はグラスを再び黄霞に差し出した。
狼狽えることも、弁明をしようともしなかったのは李なりの矜持なのだろうか。
耀明の視線と、海峰の冷徹にも見える視線が絡み合った。
黄霞は何も言わずブランデーを注ぎ、李に渡した。
李は今度は口をつけることもしなかった。渡されたグラスを見つめて動かない。
車内は空調が効いているはずだが、異様なまでの汗が李の顔をつたい、落ちる。
一瞬の沈黙のあと──。
梁が再び煙草をつまんだ。例によって軽く肘掛けにトン、トンと当てて葉を詰めてから口元に咥える。
黄霞がマッチに手を伸ばしたのを梁は制して、自分の手でマッチを擦って煙草に火をつけた。
そして、それが──。
合図だった。
跳ねるように自席を蹴った黄霞は、低い姿勢のまま一気に間合いを詰めて、しなやかな指先を後ろ髪に滑らせた。
髪留めを引き抜いて、くるんと身を翻す。
瞬間、解き放たれた長い黒髪がパッと広がって舞い、男の視界を奪った。
更に黄霞は握りしめた髪留めをスナップさせた。
かすかなパシャッという音がして、先端から五センチほどのチタン合金製のブレードが伸びる。
反射的に座席から身を起こし、懐の銃を抜きかけた男だったが、間に合わなかった。
その勢いのままに、ブレードが一閃した。
なす術もなく、護衛の男は喉笛から頚動脈まで切り裂かれ、声も出ない。
飛び散った鮮血の数滴が黄霞の頬に張り付き、血なまぐさい匂いが車内に充満する。
護衛の男が手にしていたグラスが落ちて転がり、溶けかけた氷とブランデーがフロアに流れ出して、ブランデーの香りが立ち昇った。
すぐさま手の中の髪留めをくるりと回転させ逆手に持ち替えると、次は男の左胸──心臓の位置に深々と突き立てた。立ち上がりかけていた男の身体はびくんと跳ね、座席にぐったりともたれかかって動かなくなった。
身体に浴びた返り血にも構わず、黄霞は男が掴みかけていた懐のオーストリア製自動拳銃を取り出した。
弾倉を抜き、薬室を空にすると、遊底や銃身も取り外してフロアにばら撒いた。
ほんの一瞬の間に隣で起きた惨劇に李は驚愕の表情を隠せなかった。
「なっ……」
その時、李の脳裏に車に乗り込む際の記憶が走った。
梁の隣席にいる少女を見て思わず吐き捨てた自分の言葉──。
「呢啲奶妹,搞到我硬唔起,搵啲索啲嚟啦(こんな小便くさいのじゃなくて、もっといい女連れてこれねえのかよ……)」
誰かを懐柔したりする時、女を使うのは梁がよく使う手だ。その時はそう思い込んで考えもしなかった。
だが、梁海峰はそういう時、徹底的にリサーチする男だったはずだ。どんなタイプが好みなのか、服装、メイク、喋り方。
──女がダメなら男。単純な手だが、それが一番よく効くんだ──。
梁はいつもそう言っていた──。
そこまで徹底する梁が、このタイミングでそんな適当なやり方をする訳がなかったのだ。
そして──。
この少女はただの少女ではなかった。
「じゃあ──。お前が、公仔なのか……!?」
ごくり、と喉を鳴らして呟いた李に、黄霞は無言で視線を向けた。
そう、黄霞は。
──公仔だった。
その②へ




