『そして、時は健やかに・前編』③
──香港国際空港。
日本からの便は、多少遅延はあったものの、悪天候を感じさせない穏やかな着陸で到着した。
同年代の中でも長身の二人の壮年男性は、それぞれのスーツケースを受け取ると到着ロビーに出た。
二人ともカジュアルなジャケットにノータイのシャツ、スラックスといういでたちで、年齢よりは若々しく見えた。
「イミグレーションが珍しくスムーズに進んでよかったですね、会長」
二人のうち、穏やかな表情の男が、もうひとりの男にそう話しかけると、会長と呼ばれた男の鋭い眼差しがふっと和らいで、口元を綻ばせた。
「よその便が遅延しているおかげで、我々の飛行機が一番乗りだったからな。運が良かったのさ、高坂」
そうやって笑うと少年のような屈託のない表情になる。
このどこか人懐っこい笑顔に惹かれた者は敵味方を問わず数知れず。
それが、この男──紀澄ホールディングス・グループの創業者であり会長、紀澄浩一郎だった。
「有一さんたちはまだお見えではないようですね。珍しいな、こういう時には早いくらいなのに」
高坂護はそう呟くと軽く辺りを見回した。
高坂はもうずっと──ふたりがまだ無名の若者であった頃から、友人であり浩一郎の女房役として傍らに居続けた存在だった。
現在も、秘書として浩一郎を支えている。
「この天候だからな。道路だって混んでいるんだろ」
言いながら取り出した携帯を見る。着信やメッセージは届いていなかった。
「高坂。お茶でも……」
ちらりとロビーの一角にあるカフェに視線をやった浩一郎がそう言いかけたときだった。
ロビー内のテレビが緊急ニュースに切り替わった。
『緊急新聞!北大嶼山公路往香港國際機場方向發生嚴重交通意外,多名居港日本人家庭成員傷亡!』《ここで臨時ニュースです!ノース・ランタオ・ハイウェイの香港国際空港方面で重大な交通事故が発生しており、在香港日本人家族が巻き込まれ死傷者も複数発生しているとのことです!》
一瞬荒い空撮映像に切り替わり、高速道路だろうか。
かなり遠景に青や赤の回転灯の煌めきが帯のように連なった映像。
広東語が多少できるふたりの表情が凍りついた。
「おいおい──嘘だろ……!」
浩一郎の口から思わず言葉が漏れた。
慌てて携帯で電話をかける。
有一たちではない、そんなはずはない。
祈るような気持ちで応答を待つ。
だが、長い呼び出しコールのあと、自動音声の留守番電話に切り替わった。
「会長……?」
高坂には答えず、電話を切った浩一郎の表情が歪んだ。
「──有一は運転中で出られないのかも知れん。真紀さんにかけてみよう」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、有一の妻、真紀の番号を探す。何故か指がこわばって上手く携帯を操作できない事に浩一郎は小さく舌打ちをした。
ようやく、発信音のあとに呼び出しコールが鳴り始める。
いつの間にか浩一郎は汗だくになっていた。背筋を冷たい汗が伝う。
(お願いだ、出てくれ……)
だが願いむなしく、有一の時と同じように長いコールのあと自動音声に切り替わった。
「……だめだ。真紀さんも出ない」
浩一郎は口を真一文字に引き結んで、一瞬天を仰いだ。
隣でも高坂が無言で携帯を耳に当てていたが、ややあって無言のまま被りを振る。
「有一さんに、こちらからもかけてみましたが……。応答ありません」
苦渋の表情で、高坂が浩一郎を見た。
「……! そうだ! 悠霞にかけよう、こないだ番号を教えてくれたんだ」
浩一郎はそう言うなり再び携帯を慌ただしくタップした。
数回のコールのあと、
『はい、悠霞です!』
飛び込んできた孫娘の明るい声。
ほっとした浩一郎は軽く笑みを浮かべて高坂を見た。
「悠霞か! おじいちゃんだよ! 今どこに……」
それは焦燥感が消えた瞬間だった。
『──ご用件のある方は、留守番電話にどうぞ!』
その声は確かに孫娘、悠霞のものだった。
だが、それが録音されたボイスメッセージだと気づいた瞬間、言葉を失って膝の力が抜けた。
続けて流れる、ややおぼつかない広東語のメッセージ。
まさか──。
それを聞きながら──気づけば、浩一郎はその場にへたり込んでいた。
「会長!」
慌てて高坂が浩一郎を助け起こす。
強く腕を引かれた浩一郎は、付近にあった待合の椅子に座らされた。
高坂の手が離れると、浩一郎は呆然と自身の携帯を見つめた。
画面が、やたらと眩しく感じる。
指が無意識にディスプレイをなぞるが、通話の履歴には今自分でかけた物しかない。
「会長──いや、浩ちゃん! まだ何も分からないんだ、しっかりしろ、落ち着け!」
高坂の声が、どこか遠くの方から聞こえる。
本当は目の前で話しているはずなのに、まるで壁一枚隔てた向こう側のように感じる。
視界の端で、携帯を慌ただしく操作していた高坂が一瞬、軽く息を吸い込むのが見えた。
そして、どこかへ電話をかけ始める。
「領事館ですか? お忙しい中恐れ入ります。わたしは高坂と言います──」
(……なんだ?)
「先程香港に到着したのですが、連れの家族が迎えに来ると言う事で……」
高坂は何を……?
声が遠い。
言葉の意味は分かるのに、内容が頭に入らない。
音だけが、ノイズのように脳内に響く。
「……ああそうです、今速報で流れていた事故の……」
その言葉だけが、やけに鮮明に聞こえた。
──事故の。
浩一郎はもう一度携帯に視線を落とした。
誰からも、折り返しは──ない。
何が起きているのか──頭が理解を拒む。
肩を揺すられ、浩一郎は顔を上げた。
高坂だった。
「とりあえず、在香港領事館に情報収集をお願いしました。事故の件は領事館でもすでに動いているようです。ですので、詳細が分かり次第連絡をいただける手筈になっています。
──今はとにかく、待ちましょう、会長」
高坂の冷静な口調に、浩一郎は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「……そうだな」
呟いて息を吐くと、椅子の背もたれに身体を預ける。一瞬目を閉じてから、高坂を見た。
「すまなかった。ありがとう」
高坂は柔らかく笑みを浮かべた。
「──それがわたしの仕事ですから」
高坂がそう囁いたときだった。
「──あのう」
女性の声。
声の主は浩一郎や高坂と同年代くらいの品の良さそうな女性だった。
「はい?」
浩一郎が口を開きかけたところで高坂が間に入った。
「──どうかされましたか?」
「いきなりお声がけしてごめんなさい。今テレビでやってたのって、事故なんですか?」
どこか不安そうな表情の女性は、浩一郎たちと同じで旅行者らしく、小ぶりなキャリーケースを片手で引っ張っていた。
浩一郎は軽く吐息を漏らして、表情を和らげた。
「──そのようです。
ただ──。我々も何も分からんのですよ、奥さん」
浩一郎の言葉に女性は少し残念そうな表情になった。
「そうですか……。娘夫婦が迎えに来るはずだったんですけどねえ、まだ来なくて……。そしたら、いきなりテレビで速報らしいのが流れたもんだから、驚いちゃって。
こちらの言葉は分からないけど、ほら、日本人っていう漢字は読めるから……。え? まさか、と思って」
女性はぱっと見の上品そうな感じとは裏腹に、気さくなたちらしかった。
「それは──。心配ですね。うちも、息子家族が迎えに来てくれることになっていたのですが……。誰も連絡が取れないので、領事館の方に情報収集をお願いしたところなんです」
やや表情を和らげた浩一郎は、相手を安心させるように薄く微笑んだ。この女性と話していると、かえって落ち着きを取り戻すような気がした。
「え……? まぁ……!」
女性は浩一郎の話を聞くと、口元を手で抑えて息を呑んだ。
浩一郎は、何故か、目の前の女性とは似ても似つかないが、亡くなった妻の沙希子を思い出していた。
「……まぁ、奥さん。天候もこんなですし、携帯の電波状況が良くないのかも知れません。大丈夫ですよ」
「そうですよね? ──でも、うちも領事館に電話しておいた方がいいのかしら……」
どこか取り止めのない女性に浩一郎と高坂が一瞬顔を見合わせた時だった。
「──いた!お母さん!」
少し離れたところから小走りで向かってくる三十代くらいの女性が見えた。
「やだ、遅かったじゃないの! テレビで事故のニュースやってたから、心配したのよ」
ぱっと明るくなった女性はぶんぶんと手を振って娘に呼びかけた。
「雨のせいか駐車場がめちゃくちゃ混んでたから、中々入れなくて──」
そこまで言って、女性の娘は浩一郎たちに気付いたように軽く会釈した。
「よかったですね、奥さん」
笑みを浮かべると浩一郎は会釈を返した。
「ありがとうございます。早くお子さんたち、いらっしゃるといいわね。
きっとうちと同じで駐車場に入れないのよ。それじゃ、失礼します」
娘にキャリーケースを渡す女性はそう言うと浩一郎たちに会釈した。
「ありがとうございます。お気をつけて」
立ち去る女性と娘を見送ると、浩一郎は会釈を返して穏やかに微笑んだ。
その④へ




