『きらめきのあと』⑤
先刻までアナベルだった黒いモヤはふわりと浮いたかと思うと、二階ほどの高さを進んでいく。
「どこ行くんだ?」
放り出したリュックを片方の肩に掛けた臣吾は、目でそれを追う悠霞にそう言った。
「分からない。でも堀内さんのところへ行くんじゃない? 追いかけよう」
言うなり駆け出した悠霞の後に、臣吾は続いた。
一方、望美と美咲は──。
旧校舎の周囲に真悠の姿はなかった。
体育館裏から旧体育館裏を回って、収穫のなかった二人はとぼとぼと校舎に戻りつつあった。
「まさか、教室いるとか?」
「わかんない──」
勢いで飛び出してきたものの、それは間違いだったのか。
望美は胸元に抱えた真悠のスケッチブックに視線を落とした。
「委員長、校舎裏回っていなかったら、教室帰ろう──」
そこまで言って校舎裏に回り込んだときだった。
「真悠──?」
望美は呟いて歩みを止めた。
俯いて、一人校舎裏で佇む真悠の背中が少し先にあった。
「田中さん──?」
望美は声をかけた美咲を見て無言で頷くと、胸元のスケッチブックを持つ手に少し力を込めて、意を決したように歩みを進めだした。
美咲も恐る恐る、望美の後を追う。
土を踏むふたりの足音に、真悠は振り返った。顔を上げた表情は固い。
「真悠──」
そばまで歩み寄ると望美はそっと声を掛けた。
「──なに」
真悠は囁いて視線を逸らした。
そのまましばらく二人は無言のままだった。美咲は、何か言うべきなのか掴めぬまま、それを見つめるしか出来ずにいた。
「これ──。昨日置いて行った、真悠の」
ややあって、かすかに喉を鳴らした望美はスケッチブックを真悠に差し出した。
真悠は息を呑んで、スケッチブックをじっと見つめた。
「無理だよ」
「え? でも」
真悠は望美を見た。
「無理なの。なんで持ってきたの? わたしは──」
もう一度繰り返した真悠に、望美はきっぱりとした表情になった。
「真悠の、ものだから。真悠が大切にしてきたものだから」
美咲は、一瞬躊躇ったが、
「堀内さん──」
それだけを口にした。
美咲の言葉に、真悠は視線を向けた。
「──なんで? 委員長まで」
そう呟いた真悠の瞳が揺れて見えた。
「え? それは、わたしが、勝手に──」
美咲はそれだけを言って口ごもった。
それを見て、真悠の唇がかすかに震えた。
「なんで──」
「えっ」
美咲が軽く目を見開いたとき。
「どうして──わたしにできないことを、そうやって──」
呻くような真悠の言葉に、望美は一瞬息を呑んだ。
「真悠、待って」
「いやだ! だから、だからわたしは! 願うしかなくなるの!」
真悠の瞳が赤いきらめきに包まれた。
真悠の背後からぬっと黒い影が現れた。
──鈍く黒光りする甲冑と、赤く光る眼。
「──!」
望美が無言のまま後ずさる。
「これが……悠霞ちゃんの言ってた、騎士ウィル?!」
ぞくりとした美咲は呟いて下がりながら、望美の斜め前に立った。
剣をかすかに鞘から浮かせる小さな音の後、ウィルはブロードソードを鞘走らせた。
「娘。そこをどけ。
お主には関わりなきことだ。立ち去るがいい」
重々しいウィルの言葉に、一瞬美咲は言葉が出なかった。濶剣のきらめきに身がすくみ、脚が震える。
ごくりと唾を飲んで、美咲はウィルの赤い眼を見返した。
「わ、わたし──。クラス委員だから、だから──かん、関係なくない!」
ウィルは一瞬無言になった。
「ならば──お主も斬らねばならぬ」
その目の赤い輝きが増し、柄を握る手に力が込められた、その瞬間だった。
「ウィル!」
勝ち気な少女の声が飛んだ。頭上から現れた黒いモヤが舞い降りる。
「! その声、アナベル殿か」
「アナベル……?!」
真悠の目が見開かれた。
(──何故? なんで……アナベルがいるの?)
それには構わず、黒いモヤの一部がアナベルの上半身に変化した。
「彼奴等は手練れだ。その上妙な魔道の手妻を使う。お前にわたしの力を授ける。やるぞ!」
再び黒いモヤに変じたアナベルがウィルにまとわりついた。
「心得た。御身の力を我が身に宿らせたまえ!」
ウィルの声が響き渡る。
「待て!」
後方から聞こえた声は──。
「火田くん! 悠霞ちゃん!」
その姿に美咲は声を上げた。
悠霞と臣吾がこちらに向かってくるのが、見えた。
その間にも、一度構えた剣をウィルは顔の正面に真っ直ぐ掲げた。
アナベルだった黒いモヤが、そのウィルの全身を覆っていき、やがて漆黒に包まれた。
「えっ──」
「田中さん」
美咲は呆然としている望美の腕を引いて更に後ずさる。
その頃、雄宇とカールセンは校舎二階廊下に移動していた。
「正解でしたよ。ここからなら声も聞ける」
窓の一つが少し開けられていたのは僥倖だった。
窓と窓の間、柱の陰に雄宇は潜んで外の様子を伺っていた。
「騎士とあの少女。──融合、したのか?」
窓を挟んだ反対側で張り付くようにして外を見ていたカールセンの言葉に、雄宇は軽く目を細めた。
「へぇ……」
その雄宇たちの眼下では──。
黒いモヤが晴れていき、中から姿を見せたウィルは、明確に変貌していた。
シンプルな中世風だったプレートアーマーは、龍の意匠を纏ったような生物的な装飾が増えており、手甲や肩甲に鋭い棘があしらわれていた。
更に、左腕には龍の翼をモチーフにしたと思えるバックラーが現れた。
真っ直ぐに掲げられていた剣は退廃的な曲線で象られ、複雑な色合いを帯びて異彩を放っていた。
ただの剣ではない。『魔剣』という形容が似合うものに変化していた。
そのヘルムには、やはり龍角を思わせる突起が耳の辺りから後方へ伸びていた。前方には、龍の顎を模した庇が、覗き穴の上部を覆う。
「なに──?」
呟いた臣吾は、じり、と足を踏み締めた。
悠霞は、静かに息を吐いた。
(昨日とは違う。明確に変化した。アナベルと融合したから?)
爪先に力を込め、重心を変える。
「なんで? 火田くんまで──。なんでなの?」
真悠はわなわなと唇を震わせた。
「お主も、マユの敵か」
ウィルは剣を握り直すと、下段に垂らしたようにも見える愚者の構え《アルバー》で臣吾に向き直った。
「──!」
臣吾は一瞬悠霞を見た。
(どうする? 紀澄が引き付けてくれても、あの剣の間合いを潜り抜けられるのか? ──これじゃ)
臣吾は真悠を見た。
「堀内! お前がこれをやってるなら、こんなこともうやめろ!」
臣吾の言葉に真悠はハッとしたように目を見開いた。
「無理──。もう、戻れない。止められない。願ったら、あの石は消えてしまった……。だからわたしは──」
臣吾は眉を顰めて一瞬絶句した。
「消えたって……。石? 何言って──」
二階廊下のカールセンは、窓の外の真悠の言葉に驚きの表情になって雄宇を見た。
「消えた──?」
「──消える?」
雄宇はかすかに目を細めると、小さな声で反芻して窓の外にもう一度視線を向けた。
臣吾はかすかに表情を歪めると、一瞬自分の拳を見て、真悠を見た。
(あれを──堀内に?)
悠霞に目をやると、悠霞は静かに首を振った。
「火田くん──。それは」
「──! だが」
臣吾は唇を軽く噛んだ。
それ以上言わず、悠霞は真悠に向き直ると一歩踏み込んだ。
「堀内さん──」
真悠は気圧されたように後ずさる。
表情を歪め、ぱくぱくと唇が虚しく動く。
「真悠──。お願い、わたしと真悠で何も違わないじゃん。もう、こんなこと──」
そう言うと、望美はスケッチブックを抱きしめたまま、美咲が止めようとするなか、少しだけ前に出た。
望美を見る真悠の瞳が揺れる。
「もう無理だよ──。止められない! 戻れないんだよ!
だから──。
わたしはやり遂げるしかないの!」
その叫びと共に真悠の瞳が赤いきらめきに包まれた瞬間。
ごっ、と空気が動いた。
恐るべき速度で真悠と悠霞の間に割って入った黒い影。
その中に真悠と同じ赤い双眸が眩くきらめいて迫るのを、悠霞は見た。
(速い──!?)
「悠霞ちゃん──!?」
「紀澄!」
一拍遅れて、美咲と臣吾の声が飛んだ。
その⑥へつづく




