『きらめきのあと』④
うねうねと蠢く黒いモヤの塊から、虚空に赤く光る線が伸びた。
線が走り、瞳ほどの大きさの丸が滑らかに描かれて──いく。
その中央にひとまわり小さな円が描き終わると同時に、それが不思議な色合いの漆黒となって、虹彩が灯った。
線だけだった瞳も、虹色がかった蒼に染められた。
「……眼?」
吐息混じりの悠霞の呟きに応えるように、瞳の上を走る線がすっと伸びて流れ、今度は下側にも線が走る。
流麗な弧を描いた上と下がつながると、アイラインとして太さを増し、ふわりと睫毛が目頭と目尻に伸びた。
すぐ隣に同じように瞳とアイラインと睫毛が描かれて、二つの眼が宙に現れた。
上の線──アイラインがすっと降りて重なる。一瞬瞳が消えた。
すぐにそれが開くと、瞳の周囲が白に満たされて、双眸となった。
(描いている──!?)
悠霞は、隣の臣吾が息を呑んで土を踏み締める音を聞いた。
赤く光る線の動きが加速した。みるみるうちに両眉が描かれ、それを目印にしたように、滑らかな鼻筋が伸びて小ぶりな鼻と、ぷっくりとした唇が引き結ばれた。こめかみから頬骨、頬を描いて顎へ走り、そして──。
顎先からすっと喉の線が伸びた。
おでこの中央から、前髪がふわっと現れ、徐々に増えながら左右に流れていく。さらに加速した線が走り、そのまま無数の髪の線が、緩やかなウェーブで後ろへ長く流れてそよいだ。
続いて身体を高速の描線が走り、胴からすっと伸びた脚、そして腕から指先。ミニワンピースに包まれた少女の身体を一息に描きあげていく。
悠霞と臣吾は、身じろぎもせずに目の前の光景に目を奪われていた。
(なんだ──これ!)
瞬間、赤くきらめく描線が黒く染まり、宙に浮いて見える『少女の絵』がそっと目を閉じると、その身体が胎児のように手足を縮め、抱きしめるように丸まっていく。
(……動いた?)
どこかで鳥が飛び立ち、羽音がざわめきに混じった。
刹那。
丸まっていた身体が解き放たれた。腕や縮めていた膝が伸び、ぐっと力が込められた。足先がすっと下へ落ちる。
その身体が地上に降りた瞬間、閉じていた瞳が開き、赤く輝く。
何かが共鳴するような甲高い音とともに、広がったまばゆい光に少女の全身が包まれていく。まるでオーラを纏ったようなその輪郭は、西洋のドラゴンのシルエットに見えた。
呼応して咆哮に似た音が響く。
「うっ……!」
(何が……起きているの? これは?!)
臣吾も悠霞も目を刺す光に顔を顰め、かすかに視線を逸らした。
視線を戻した悠霞の目に映ったのは、描線だけだった少女の身体に色が満ちて、まるで絵から抜け出たように立体となった姿だった。
(……!)
その瞬間、閃光のように記憶が脳裏をよぎった。
──真悠から見せてもらったスケッチブック。
美麗で不思議な髪の色は、あの真悠のイラストと同じだった。
「……アナベル?」
「えっ」
その囁きに思わず臣吾は悠霞を見た。
俯いていた少女が顔を上げた直後。
地を蹴る音と共に、少女は瞬時に間合いを詰めて眼前に迫る。
「なにっ!」
反射的に臣吾も悠霞も後ずさって間合いを取った。
「お前──なぜわたしの名前を知っている?」
「!?」
悠霞は息を呑んだ。
「しゃべった……?」
臣吾の言葉に、少女──アナベルは嘲るような笑みを浮かべた。
悠霞はちらりと臣吾に視線を向けて呟いた。
「堀内さんのスケッチブックの絵にあった。だから名前を知っているの」
「何言ってんだ、これも堀内が描いたってのか──?!」
ふたりの言葉にアナベルが眉を顰める。
「馬鹿なことを──。絵に描かれたものが現世に抜け出すはずもない。
大体わたしは絵ではない! そうか……。お前たち、魔道の手妻でわたしを絵に写して呼び寄せたか!」
その瞳が赤く煌めいた──刹那。
アナベルの左腕が斜め下から、眼前を振り払うように跳ね上がる。
腕が鞭のようにしなって見え、その指先から、鋭く爪が伸びた。
「なっ!」
「──!!」
臣吾も悠霞も左右に跳ねて避けた。
「ふぅん?」
アナベルは悠霞を追うように身を翻した。地を踏み締める足が変わる。
下段から右腕が振り上げられた。やはり鞭のようにしなって見える。ボクシングのフリッカージャブにも似た、しなる軌道の裏拳。
(速い!)
胸元に迫るアナベルの右の手首がくるりと返り、指先から、爪が伸びた。
(裏拳じゃない──!)
仰け反った胸元を掠めて、何かが、舞う。
それは、襟元のリボン。なびいたリボンの先端が裂かれて、オレンジの切れ端が舞った。
(最後の瞬間に、手首をスナップさせた?)
悠霞は脚を踏み換えて、仰け反った身体を立て直す。その動きに乗せた右の裏拳の軌道が、アナベルの頬ギリギリをかすめる。
「ぬ!?」
目を見開いたアナベルに構わず、左の掌底をアナベルの胸元に放つ。
打撃でダメージが与えられないのはコボルトで分かっている。
突き飛ばされたようにアナベルが脚をもつれさせた時、悠霞がすとんと腰を降ろした。
屈伸運動のような動き。ぐっと曲げられた右脚を軸にして、まっすぐ伸びた左脚が円弧を描き、地面スレスレを一旋した。
狙いは、アナベルの脚。
無論、おとなしく脚を払われるアナベルではなかった。
寸前でアナベルの身体が、宙に──舞った。それまで足のあった空間を、悠霞の左踵が薙ぐ。
(避けられた!)
悠霞は構わず、振り切った左脚を踏みしめると右脚で地を蹴り、腰を浮かせた。
(背を向けたか、娘!)
軽く宙を舞ったまま、瞳を赤く煌めかせたアナベルは、両腕を交差させる。
狙うは──背。
だが、それは隙ではない。
足払いの勢いをそのまま、悠霞の右脚が螺旋を描くように跳ね上がった。
背を向けたわけではなかったのだ。充分に回転の乗った、後ろ回し蹴り。
アナベルの視界に踵が迫る。
「なっ?!」
交差した両腕を開く斬撃が使えない──!
向きを変えた少女──悠霞の視線がアナベルを刺すように見えた。
(ええい! 間に合わぬ)
交差した腕を固め、衝撃に備える。鈍い音が走った。
──屋上。
眼下の光景に雄宇は小さく息を呑んだ。
(まさか、ああも動けるのか? もしぼくの想像通りなら──彼女は)
「凄いな、あの二人。まるでカンフー・ムービーじゃないか」
呆れたように笑ったカールセンは無言のままの雄宇を見た。
「何をしてるんだい?」
雄宇はいつの間にか携帯を構えて、地上にカメラを向けていた。
「盗撮ですよ」
そう囁いた雄宇の視線の先。
悠霞の後ろ回し蹴りに、交差した腕のガードで耐えたドラゴンの少女が着地するなり、真っ直ぐ高く脚を跳ね上げるのが見えた。テコンドーの脳天踵落とし《ネリョチャギ》にも似た技は速く、尋常のものではない。
「速いな」
雄宇が呟いたとき。
(速え!)
地上の臣吾は、感嘆しつつもアナベルの隙を突こうとその後ろへ回り込んだ。
振り下ろされたアナベルの踵を、悠霞はギリギリのところで躱して、ポニーテールが揺れた。
「なるほど。この間合いでその手数。お前が、ウィルの言っていた暗器手の娘か!」
アナベルは昂然と顎を逸らしてそう言った。
咄嗟に悠霞はステップバックして間合いを取った。
「また──。その言葉!」
──暗器手。
あの騎士、ウィルも自分にそう呟いた。やはり意味は分からない。
だが、その言葉にはどこか禍々しい匂いがあった。
──どういう意味なのか。
思考の坩堝に囚われた瞬間、自身の動きが止まっていたことに悠霞は気づいていなかった。
「紀澄! そいつの言葉に耳を貸すな! お前を惑わしてるだけだ!」
耳を刺す臣吾の言葉。
すぐ目の前まで、アナベルが迫っていた。爛々と煌めく赤い瞳と、呼応するように陽の光が指先の爪を輝かせるのが見えた。
「……!」
臣吾の声は、悠霞の身体を無意識のうちに動かしていた。
横っ飛びに地を蹴り、回る。スレスレを薙ぐアナベルの爪を見てから、しゃがむように着地した悠霞に、アナベルは悔しそうに口元を歪めた。
「避けたか、娘! 煩わしいぞ、孺子!」
そう言い放ったアナベルの身体を、出現の際と似た光が包み込んだ。
立ち上がった悠霞の目に、アナベルの背後でリュックを盾にした臣吾が見えた。
次の瞬間。
アナベルの腰のあたりから、何かが伸びた。
「なにっ?!」
臣吾の目が見開かれた。
空を切り、鞭のようにしなったそれが、臣吾の脚にからみつく。
「えっ!?」
悠霞は息を呑んだ。
(しっぽ──?!)
強く引かれ、足を取られた臣吾は転倒するより他になかった。
「ぬおわっ!」
「火田くん!」
アナベルは、
「齢二百を超える龍種たるこのわたしを、舐めてもらっては困る!」
と胸を反らした。
なす術もなく、引きずられる臣吾は顔を歪めた。
(なんだこれ! こんなんありかよ──。ていうか、あいつ二百歳超えてんのか!)
流石に唖然とした顔の悠霞がアナベル越しに見えた。
(そうか、これなら──!)
臣吾はリュックを投げ捨てると、もう一度呼吸を整えた。
呼吸が変わり、臣吾の身体を氣が──巡る。
臣吾は引きずられながらも上半身を起こした。
それこそが、臣吾にとって最大の機会だったのだ。
『爪』の間合いから離れ、氣道を打ち込める、好機。
「こなくそ!」
脚に絡みついた『尾』に乾坤一擲の掌打が放たれる──刹那。
眩い輝きが掌に宿った。
アナベルの『尾』に、バァン! という響きとともに叩き込まれた光は、『尾』を昇るような煌めきとなって駆け上がっていく。
「うぬ?!」
振り返ったアナベルの表情が変わった。
「ぐむぅ……! 何をした、孺子!?」
言いながらも、爪が一閃して『尾』を切断する。
「おのれ! 龍種七眷属の一尾たる、わたしに、このような魔道の手妻を使うとは!」
忌々しげに睨め付けたアナベルは、完全に、その気配を見逃していた。
「──!?」
視線を悠霞に戻したときには、肉薄する悠霞の掌底が、アナベルの脇腹に吸い込まれていた。
全身のバネと腰の回転を込めた、渾身の掌底を喰らい、アナベルは足をもつれさせた。
「よくも! アンクシャの娘ェ!」
よたよたとたたらを踏んで、かろうじて転倒せずに済んだ。
一方、臣吾の脚に絡みついていたアナベルの『尾』が徐々に白い粒子となって、消失していく。
「おわっ」
そこまではよかったものの、臣吾は引きずられていた勢いのまま、地面を転がってから立ち上がった。
(ダセぇ──)
そして──。
アナベルは膨れっ面で悠霞と臣吾を睥睨すると、
「ええい! ここは分が悪いわ!」
と言う言葉と共に、その身体が徐々に黒いモヤに変化していき、全身が包まれた瞬間、浮いた。
(逃げる──?)
その⑤へつづく




