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春は巡り、冬を想う  作者: 猪口 零都


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4.春を選ぶ

 ある夜、冬の王が言った。


「春とは、どんなところだ」


 唐突な問いだった。ただ純粋に春のことを知りたがっている。そんな声に聞こえた。


「花が、咲いています」


 私は少し考えてから、言葉を選んだ。


「色とりどりの花が。赤も、黄も、白も。風が吹くと花びらが舞って、空が色づくんです」

「空が?」

「ええ。桜の花びらが風に乗ると……ここの雪みたいに、ふわふわと落ちてきて」


 言ってから、気づいた。私は今、雪と花びらを、同じ言葉で表現している。


「……この国の雪を見て、初めてそう思いました」


 冬の王は黙って聞いていた。相槌も打たず、でも確かに聞いている。それが不思議と、話しやすかった。春の国では、誰も私の話を聞かなかった。讃える声はあっても、聞く耳はなかった。……いや、もしかしたら、私自身が、聞かせようとしてこなかったのかもしれない。


「草の匂いも、好きです。雨の後の、土の匂いも。子どもたちが花冠を作って、笑い合っている声も」


 話しながら、胸の奥が温かくなっていくのを感じた。

 こんな風に春の話をするのは、初めてだった。誰かに語るのではなく、誰かと共有するように話すのは。それが春の国の人々でも、秋の女王でもなく、冬の王にだとは……。


「そうか」


 冬の王は短く言った。でもその目が、僅かに柔らかくなった気がした。


 翌朝、雪はまだ降り続けていた。


 冬の王と並んで、廊下の窓から外を眺めていた。特に理由はなかった。ただ、同じ場所に立っていた。


 そのときーー雪が、やんだ。


 ふっと、世界が静まった。降り続けていた白が止まり、空気がひとつ、息を吸ったような静けさが広がった。

 どちらも何も言わなかった。

 言葉にしてしまうのが、惜しかった。ただ並んで、その瞬間の中にいた。


 雪がやむ瞬間、世界が息を吸うーー冬の王がそう言っていた意味が、今ならわかる気がした。春の国にも、こういう瞬間はあっただろうか。世界が、大地が息を吸う瞬間が、あったのだろうか。私はそれに気づけないまま、過ごしてきただけだろうか。


 不意に隣に、温かさを感じた。


 暖炉の火でも、春の陽気でもない。ただ、誰かが隣にいるというかけがえのない温もり。


 城の外へ出たのは、午後のことだった。


 雪原を少し歩いてみたくなって、一人で出たつもりだった。でもいつの間にか、隣に冬の王がいた。


「一人で出るな。道に迷う」


 それだけ言って、並んで歩いた。

 しばらく歩いていると、風が吹いた。雪が舞い上がり、私の髪に積もった。払おうとしたときーー冬の王の手が、先に動いた。


 無言だった。ただ、そっと。髪に積もった雪を、払った。


 一瞬のことだった。でも私は、次の一歩を踏み出すのを忘れた。


「……ありがとうございます」


 声が、少し小さくなった。

 冬の王は何も言わなかった。ただ、また前を向いて歩き始めた。

 私も歩いた。でも頬が、寒さのせいだけではない理由で、熱かった。


 この国は、雪しかない。色も、花も、温かさもーー春の国とは何もかもが違う。


 なのにどうして、こんなにも温もりを感じられるのだろうか。どうしてこんなにも、この人が温かいと感じるのだろうか。


 答えは出なかった。でも、出なくてもいい気がした。


 報せは、秋の女王からの手紙で届いた。


 草木が、枯れ始めています。


 たったその一文を読んだ瞬間、手が止まった。予想していたはずだった。私がいなければそうなると、わかっていたはずだった。

 

 なのに、胸が痛かった。


 最初は罪悪感だと思った。義務を放り出してしまったことへ罪悪感だと。でも手紙を握ったまましばらく立ち尽くして気づいた。これは罪悪感ではない。


 私はあの大地を彩り咲き誇る素晴らしい景色に、枯れてほしくないと思っている。


 義務だからではない。誰かに言われたからでもない。ただーー春の花が、草木が、枯れていく姿を思い浮かべたとき、胸の奥から滲み出てくるものがあった。


 私は、春が好きだったのだ。


 牢獄だと思っていた。誰に攻められているわけでもなければ、押しつけられたわけでもない。ただゆっくりと息を殺していかなければならない真綿のような、柔らかくて逃げられない場所だと思っていた。

 でも今この瞬間、遠く離れてみて初めてわかる。あの温かさも、花の香りも、人々の笑い声もーー私の中に、ちゃんと根を張っていた。


 嫌いになどなれるはずがなかった。


 冬の王を探すと、彼は城の外にいた。雪原を一人で歩いている。近づくと、雪を踏みしめる音に気づいたのか、私の方へ振り向いた。


「帰るのか」


 問いではなかった。ただ、わかっていたように彼は言った。


「……はい」


 頷くと、冬の王は雪原に視線を戻した。


「春の国が、恋しくなったか」

「恋しいというより」


 私は少し考えて、言葉を選んだ。


「好きだと、気づきました。ここに来て初めて、本当に大切だと気づいたんです」


 冬の王は何も言わなかった。ただ、白い息を一つ、吐いた。


「気づいたのなら」


 しばらくして、静かに言った。


「帰れ。自分の意志で」


 自分の意志で。


 その言葉が、静かに胸に落ちた。義務で戻るのではない。誰かに押し付けられた責任でもない。


 私が、春を選ぶ。


「雪を見たくなったら、また来い」


 冬の王は、こちらを見ないまま言った。


「雪しか知らない子どもたちが、お前の春を待っている」


 目の奥が、熱くなった。


「……必ず」


 声が、少し揺れた。それでもいいと思った。


 振り返ると、城が遠くに見えた。石造りの無骨な城。暖炉の火。鐘の鳴らない朝。初めて花を見る子どもの顔を、まだ私は知らない。でもいつかーー


 雪を踏みしめながら、私は前を向いた。春へ、帰る。自分の意志で。

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