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春は巡り、冬を想う  作者: 猪口 零都


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3.春を知らない子ども

 冬の国では、朝に鐘が鳴らない。

 春の国では夜明けと共に鐘が響き、人々は決まった時間に起き、決まった祈りを捧げ、決まった一日を始める。でもここでは、目が覚めた者から静かに動き出す。暖炉に火を入れる者、厨房へ向かう者、まだ毛布に包まったまま窓の外を眺める者。誰も誰かを急かさない。


 それがとても、不思議だった。 


「なぜ、鐘を鳴らさないのですか」


 ある朝、私は冬の王に問うた。城の廊下で偶然並んだ、ただそれだけの状況だった。謁見でも、会議でもない。


「必要がないからだ」

「でも、人々が好き勝手に動けば、国が回らないのでは」

「回るさ」


 短い答えだった。でも歩みは止めず、話を続ける。


「腹が減れば誰かが料理をする。寒ければ誰かが薪を割る。やらなければ自分が困る。それだけのことだ」

「……罰則は?」

「ない」

「では、やらない者は?」


 冬の王は少し間を置いた。


「やらない者は、その結果を引き受ける。寒ければ凍える。腹が減れば飢える。それが嫌なら動く。誰かに言われなくてもな」


 一瞬、言葉が出てこなかった。

 春の国では、私が春を維持しなければ草木が枯れる。だから私は休めない。それは義務だと思っていた。

 でも今、冬の王の言葉を聞いてーーふと思う。


 春の国の人々は、私がいなければ枯れると知っているだろうか。知っていて、知らないふりをしているのだろうか。それとも、本当に知らないのだろうか。


 どちらにせよ、誰も引き受けていない。私一人が引き受けている。


「あなたの国は」


 気づけば声に出していた。


「国民が自由で、王が不自由なのですか」


 冬の王が、初めてこちらを見た。冬のように冷えた瞳を向けて……。


「どう感じるかは、お前次第だ」


 それだけ言って、彼は廊下の角を曲がった。

 残された私は、しばらくそこに立ち尽くしていた。腹が立つわけでもない。でも、何かが胸に刺さったまま、抜けなかった。


 どう感じるかは、お前次第。


 その言葉は、誰かに言われた言葉の中で、一番重い。だけれど一番、自由だと感じた。


「降り積もる雪にも音があると、ここに来て初めて知りました」

「しんしんと降るという言葉があるな」

「そう……ですね。しんしんと降る、と表現するのが正しいのかもしれません。とても厳かで、どこか神聖さを感じます。この国に来て好きになったものの一つです」


 しばらく、二人とも黙っていた。窓の外では、雪が降り続いている。


「……春の国では」


 気づけば、私は話していた。


「誰も私に、好きなものを聞きません」


 言葉にしてから、心の奥底の何かが少し、解き放たれた気がした。

 それはここに来てから思ったこと。少なくとも、春の国にいる時は、考えてもみなかったことだ。


「姫宮様は何が好きですか、ではなく。いつも、姫宮様のお陰で、と言うんです」


 冬の王は何も言わなかった。隣に立つ冬の王に目を向けると、彼はただ、降りしきる雪を見ていた。


「あなたは、何が好きですか」


 今度は私が聞いた。問い返すつもりではなかった。でも、聞いていた。


 冬の王は少し間を置いて、


「雪が、やむ瞬間」


 と言った。


「降り続けた後、ふっと静かになる。あの瞬間だけ、世界が息を吸う気がする」


 私ももう一度、窓の外を見た。今も雪は静かに降り続いている。


「……見たことが、ありません」

「ここにいれば、見られる」


 それだけだった。誘うでもなく、ただ事実として。

 でも私は、その言葉を胸の中にそっとしまった。


 それから何日が経っただろう。


 春の国では時が止まっているから、日数を数える必要がなかった。でもここでは、日ごとに雪の深さが変わる。空の色が変わる。時が、確かに流れている。


 その変化が、どこか、愛おしかった。


 ある夜、暖炉の前で冬の王と言葉を交わした。謁見でも、廊下での偶然でもなくーーただ、同じ火を見ている。そんな時間だった。


「雪しか知らない子どもがいる」


 唐突に、冬の王が言った。


「この国で生まれ、この国だけを知る。白い景色の中で育ち、花というものを絵でしか見たことがない」

「……」

「春がどんなものか、頭ではわかる。でも、風に乗って花の香りが運ばれてくることも、足元に柔らかな草が茂ることも……知らないまま大人になる」


 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


「お前がここにいると」


 冬の王は、炎を見たまま続けた。


「雪の中に、花が咲く」


 静かな声だった。責めるでもなく、求めるでもなく。ただ、事実を置くような声。


「それをあの子どもたちにも見せてやることができる」


 私は黙って、自分の手を見た。この手が、春を作る。それは知っていた。ずっと知っていた。でもそれは義務だった。誰かのためだと思ったことはーー今まであっただろうか。


「……花を、見たことがないのですか」

「生まれてから一度も」

「それは」


 胸の奥で、何かが疼いた。悲しみとも、焦りとも違う。もっと柔らかな、でも私の中の、確かな感情。


「それは、少し……寂しいですね」


 冬の王が、僅かに口の端を上げた。笑ったのか、どうか……。少なくとも私には、冬の王が初めて私の前で笑ったように見えた。


「ああ」


 たった一言。でもその一言に、長い年月が滲んでいる気がするのはなぜだろうか。


 その夜、私は初めてーー春を、誰かの手に届けたいと思った。義務ではなく。誰かに言われたからでもなく。ただ、雪しか知らない子どもの顔を思い浮かべて。


 翌朝、城の廊下で子どもとすれ違った。


 七つか八つほどだろうか。丸い頬に赤みを帯びて、私を見るなり立ち止まった。じっと見上げてくる目は、臆しているのか好奇心なのか、判然としない。


「……あなたが、春の人?」


 小さな声だった。


「そうよ」

「春って、本当に花が咲くの?」

「咲くわ。今頃は、あなたの背丈より高い花も咲いているかもしれない」


 子どもは目を丸くした。


「見てみたい」


 たった一言だった。でもその顔があまりにも真剣で、私は思わず膝を折って目線を合わせた。


「いつか、見せてあげる」


 自然と口から出た言葉に、自分で少し驚いた。約束をしたのは、初めてかもしれない。誰かに言われたからではなく自分から。


 子どもは頬をさらに赤くして、それから廊下を走っていった。

 その小さな背中を見送りながら、私はまだ膝を折ったままでいた。立ち上がる理由が、すぐには見つからなかった。


 窓の外では、今日もしんしんと雪が降り続けていた。

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