化けた
ヒーシの群れに出くわしたのは、下山の街道だった。
ラウカ渓谷を離れて二日目。タルヴァス河の下流に沿って街道を南東に向かう途中、森の一角が不自然に暗い場所があった。木々の葉が黒ずみ、地面に生える草が枯れている。ヒーシの気配だった。
「止まれ」
レンミンカイネンが片手を上げた。剣の柄に手をかけ、前方を睨む。
道を塞ぐように、ヒーシの群れがいた。
十数体。中型のヒーシだ。歪んだ四足の獣のような姿で、体表を黒い苔が覆っている。赤い目が一斉にこちらを向いた。
以前なら、カレは身構えただろう。アイノのカンテレの伴奏を待ち、不安定な歌で一体ずつ対処していただろう。
だが今は違う。
「待ってくれ」
カレがレンミンカイネンの前に出た。
レンミンカイネンが振り返った。抜きかけた剣を止めて、カレを見る。何か言おうとして——カレの目を見て、黙った。
カレの目に迷いがなかった。
カレは目を閉じた。
世界を聴く。
ヒーシの群れの声が聞こえる。怒りと飢え。森の歪みが生んだ存在。サンポが封じられて以来、大地のルーノが乱れ、森が病み、その病から生まれた生き物たち。
名前が見えた。
ヒーシたちの本質——「森の怒り」。大地の痛みが形を取ったもの。彼らは悪意で動いているのではない。森が叫んでいるのだ。声を持たない森の代わりに、ヒーシが怒っている。
カレは歌った。
「眠れ」
短い歌だった。ヒーシの群れの真の名——「森の怒り」——を呼び、「眠れ」と告げた。
声は大きくなかった。風に紛れそうなほど静かだった。
だが世界が応えた。
ヒーシたちの動きが止まった。
一斉に。
赤い目の光が薄れていく。四本の脚が力を失い、一体、また一体と地面に伏せていく。黒い苔に覆われた身体が丸まり、呼吸が穏やかになる。怒りが消え、森の歪みが一時的に鎮まる。
十数体のヒーシが全て、眠りに落ちた。
戦闘は、起きなかった。
一言の歌で、群れ全体を鎮めた。
沈黙が降りた。
風が木々の葉を揺らす音だけがする。眠るヒーシたちの周囲で、黒ずんでいた草が微かに色を取り戻しているように見えた。
「……お前、化けたな」
レンミンカイネンが呟いた。
剣を鞘に戻し、眠るヒーシの群れを見下ろしている。その目に驚きと、そして——純粋な感嘆があった。
「以前のお前なら、一体相手にするのにも苦労してただろ。それが群れを丸ごとか」
「名前がわかったから」
「名前?」
「ヒーシの本質が見えた。『森の怒り』だった。だから、怒りを鎮めた。……《《眠らせた》》だけだ」
レンミンカイネンが口笛を吹いた。
「いや、《《だけ》》じゃないだろ。化けたよ、お前は」
アイノはカンテレを抱えたまま、少し離れた場所に立っていた。
カレの歌を最初から最後まで見ていた。息を呑み、目を見開き、そして——複雑な表情を見せていた。
「……すごいわ」
アイノが言った。声に嘘はなかった。純粋に感嘆している部分がある。カレの成長を、旅の最初から見てきた者としての喜び。
「でも」
続く言葉が途切れた。
アイノが口を閉じた。何かを言いかけて、飲み込んだ。
カレはそれに気づいた。
「でも?」
「……ううん。なんでもない」
アイノが顔を背けた。白銀の髪が風に揺れ、表情を隠す。
カレには、アイノが何を言いかけたのかわからなかった。だがアイノの目に、一瞬だけ浮かんだものがあった。嬉しさの裏にある、影。
力を得ることの代償。
アイノだけが、それを予感しているのかもしれない。
眠るヒーシの群れを後にして、三人は街道を進んだ。アイノが飲み込んだ「でも」の続きが、まだ空中に漂っている。言葉にならなかった不安が、秋の風に混じって三人の間を通り過ぎた。




