遠い歌
ラウカ渓谷を後にした。
巨石群の歌が背後で遠ざかっていく。振り返ると、木々の間に苔むした石の頂がまだ見える。あそこで世界の始まりの歌を聴いた。あそこでカレの力は変わった。
名づけの歌の余韻で、感覚が研ぎ澄まされていた。
風の中に微かなルーノの気配を感じる。木々の呼吸が聞こえる。足元の土に宿る古い旋律の痕跡が、かすかに振動している。世界は歌で満ちていた。以前は感じ取れなかったものが、名づけの歌を得た今は聞こえる。
「カレ、顔色が変わったわね」
アイノが隣を歩きながら言った。
「目が違う。何かに耳を澄ませているような目をしているわ」
「……聞こえるんだ。色んなものが。前より多く」
「名づけの歌の影響?」
「たぶん。世界の声が——」
カレは言葉を探した。上手く説明できない。
「大きくなった。いや、前からこの大きさだったのかもしれない。俺の耳が開いただけで」
レンミンカイネンが先頭を歩いている。渓谷から下流に向かう道は、来たときよりも歩きやすく感じた。
「お前さ、遺跡に入ってから雰囲気変わったよな」
「そうか?」
「ああ。前は歌うとき、いつも力んでた。肩に力が入ってたんだよ。今はそれがない」
レンミンカイネンの観察は鋭かった。歌えない男だからこそ、歌い手の身体の変化に目が行くのかもしれない。
渓谷の出口が見えた。
狭まっていた崖の壁が両側に開き、空が広がる。午後の日差しが降り注ぎ、目が眩んだ。渓谷の薄暗さに慣れた目には、陽光が痛い。
その瞬間だった。
カレが足を止めた。
「……聞こえる」
低い声で言った。
遠くから、歌が聞こえている。渓谷の巨石の歌ではない。もっと遠い。もっと深い。世界の根底を流れるような、低く重い旋律。
北のほうから。
「アイノ、聞こえるか?」
アイノが立ち止まった。目を閉じ、耳を澄ませる。カンテレの弦に指を添えて、共振を探る。
しばらくして、首を横に振った。
「聞こえないわ。何が聞こえているの?」
「歌だ。遠い歌。北のほうから——低くて、深くて、世界の底を流れているような」
アイノの表情が変わった。
「あなたの力が強くなって、感じ取れるものが増えたのかもしれない」
「感じ取れるもの?」
「原初歌と同質の力を持っているなら——サンポもまた原初歌から生まれたものだとしたら。あなたの耳が、サンポの歌を拾っている可能性があるわ」
カレは北を見た。渓谷を出た先に広がる森の向こう。山並みの先。さらに遠く、ポヒョラの方角。
「北のほうから……聞こえた気がする」
歌はもう止んでいた。一瞬の幻聴のように短かった。だが確かに聞こえた。旋律の一端が、カレの耳に届いた。
レンミンカイネンが腕を組んだ。
「聞こえようが聞こえまいが、北に行くんだろ? なら関係ない。行く先が合っているなら、むしろ好都合じゃないか」
実利的な意見だった。レンミンカイネンらしい。
だがカレの耳には、あの旋律がまだ残響として残っている。低く、深く、途方もなく遠い歌。巨石で体験した原初歌と同質の響き。だがあの歌は石に刻まれた過去の残響だった。今聞こえたものは——今この瞬間に、どこかで歌われている生きた歌だった。
サンポの歌なのか。
それとも、自分の力が見せる幻なのか。
まだわからない。
だが確かに、北の方角から聞こえた。
三人は渓谷を後にして、タルヴァス河の下流へ向かった。日が傾き始め、木々の影が長く伸びている。
カレは歩きながら、何度か北を振り返った。
歌は聞こえなかった。だがあの旋律の記憶は、胸の奥に刻まれている。世界の底を流れる歌。いつか、あの歌の主のもとにたどり着く。
渓谷を離れても、カレの耳に微かな歌が残っていた。それがサンポの歌なのか、自分の力が生んだ幻なのか——まだわからない。
だが確かに、北の方角から聞こえていた。




