苔の巨石
ラウカ渓谷は、世界から切り離されたような場所だった。
両側を切り立った崖に挟まれた狭い谷。苔むした岩壁が空を狭め、木々の梢越しにわずかな青が覗くだけ。谷底をタルヴァス河の源流が細い筋となって流れ、水音が岩壁に反響して独特の響きを生んでいる。
その渓谷の奥に、巨石群があった。
最初に見えたのは、苔に覆われた灰色の石の頂だった。木々の間に不自然に突き出た岩。近づくにつれ、それが一つではなく複数あることがわかった。五つ、六つ、七つ——大小さまざまな巨石が、円を描くように並んでいる。
中央に、ひときわ大きな石がある。人の背丈の三倍はある。苔が厚く覆い、石の色が見えないほどだが、苔の下から文字のようなものが透けて見えた。
「これが……始まりの歌場か」
カレが呟いた。
近づくと、石の表面に刻まれた模様が見えた。文字と旋律が一体となった刻印。読めない。だがそれが文字であり同時に音であることは、直感でわかった。エイノが言っていた通りだ。
そして——聞こえた。
石から、歌が聞こえる。
言葉にならない旋律。だが確かに歌だ。微かで、遠くて、だが途切れない。石そのものが、何百年もの間ずっと歌い続けているかのような。
「……歌ってる。この石が」
カレの声が震えた。川の水に宿っていた残響とは比べものにならない。ここでは歌が生きている。
「カレ——」
アイノが声を上げた。驚きの声。
振り返ると、アイノが背中のカンテレを見ている。革の保護ケースの中で、弦が微かに震えていた。
アイノがケースを開けた。カンテレを取り出す。
五本の弦が、触れてもいないのに振動している。巨石の歌に共振しているのだ。微かな音が弦から漏れている。金属的でも木質的でもない、不思議な響き。
「勝手に鳴ってる……」
アイノが目を丸くした。
「こんなこと初めてよ。カンテレが——巨石の歌に反応している」
カレは巨石とカンテレを交互に見た。巨石に刻まれた原初歌の残響と、アイノのカンテレが共振している。二つの音のルーノが、根底のどこかで繋がっているのか。
レンミンカイネンが二人の後ろに立っていた。
剣の柄に手をかけ、周囲を見回している。だがその目は、不安と困惑を隠せていなかった。
「お前ら、大丈夫か? 俺には何も聞こえないが」
静かな声だった。いつもの軽い調子がない。
カレには想像できた。レンミンカイネンの耳には、ただの風の音と水の流れしか聞こえていないのだろう。仲間が感動し、驚いている目の前の光景から、自分だけが切り離されている。歌い手の世界に入れない。その疎外感。
「大丈夫だ。ここは歌い手のための場所なんだと思う」
カレは努めて穏やかに言った。
「歌い手のための場所、か」
レンミンカイネンが呟いた。一瞬、寂しそうな目をした。だがすぐに——本当にすぐに——表情を引き締めた。
「なら俺は見張りだ」
剣を抜いた。渓谷の入口を向き、木々の間を睨む。
「お前らが何を聴いても、俺は守る。それが俺の仕事だ」
レンミンカイネンの背中に、迷いはなかった。歌えなくても、聞こえなくても、仲間を守ることはできる。それが彼の選んだ役割だった。
カレは頷いた。言葉はいらなかった。
アイノがカンテレを胸に抱えたまま、中央の巨石を見上げている。
「すごい。この歌……古い。とても古いわ。でも生きている」
「触れてみる」
カレが中央の巨石に近づいた。苔に覆われた石の表面に、手を伸ばす。
石の歌が一瞬大きくなった。
まるで——訪問者を歓迎するかのように。旋律が膨らみ、空気が震えた。アイノのカンテレの共振も強まり、弦が明瞭な音を発した。
「気をつけて」
アイノが声をかけた。
カレの指先が石に触れた。
世界が、変わった。




