上流へ
朝のカラヨキは、漁師たちの声で目覚める。
宿の窓から港が見えた。夜明け前に出た漁船が戻り始めている。少ない漁獲を桟橋に運ぶ漁師たちの動きは、慣れた手つきの中にも疲労が見えた。飢饉は海にも及んでいる。
三人は物資を補給し、蒐集家エイノの地図を確認して出発した。
タルヴァス河沿いの道を上流へ。港町の喧騒が背後に遠ざかり、建物が減り、畑が広がり、やがて畑も途絶えた。
道は川に沿って緩やかに登っていく。タルヴァス河の流れが、下流の穏やかさを失い、白い水しぶきを上げ始める。川幅が狭まり、流れが速くなる。両岸に森が迫ってきた。
「この先は人がいなくなる。覚悟しとけ」
レンミンカイネンが言った。先頭を歩いている。カラヨキの近辺は彼の庭のようなもので、道を熟知していた。
「上流に集落はあるのか」
「小さいのがいくつかあったが、飢饉で引き払ったかもしれん。最後の集落を過ぎたら、あとはヒーシの領域に近い」
アイノが地図を見ながら歩いている。
「ラウカ渓谷まで、三日くらいかしら」
「川沿いの道が続いていれば、な。途中で崩れてたら迂回が必要になる」
午後になると、風景が明確に変わった。
人の気配が消えた。道は獣道のように細くなり、倒木が行く手を塞ぐことが増えた。森の木々は古く、太い幹に苔が這い、枝が頭上で絡み合って日差しを遮っている。空気が湿り、冷たくなった。
川の音だけが絶えず聞こえている。
二日目の昼過ぎ。
カレは足を止めた。
「どうした?」
レンミンカイネンが振り返った。
カレは川を見ていた。白い泡を立てながら岩の間を流れ落ちるタルヴァス河の上流。水の音が耳を満たしている。だがそれだけではない。
「この川……歌っている気がする」
水の音の奥に、何かがある。旋律と呼ぶには淡く、気配と呼ぶには確か。川の流れそのものが、微かなルーノの残響を帯びている。
水に近づいた。手を伸ばし、冷たい流れに指先を浸す。
——聞こえた。
水を通して、かすかな振動が伝わってきた。歌というにはあまりに微かだが、確かに何かの旋律が水に宿っている。遠い昔に歌われた歌の残響が、川の流れに溶けている。
「アイノ」
「わかってるわ」
アイノが隣にしゃがみ込んだ。同じように水に手を浸す。目を閉じ、耳を澄ませる。
しばらくして、アイノの目が開いた。
「微かだけど……確かに何か感じるわ。旋律の残滓みたいなもの。この川の水そのものに、ルーノの痕跡が残っている」
「原初歌の遺跡が上流にあるなら、その影響かもしれない」
「何百年も前の歌が、まだ水に残っているの?」
「ルーノは歌われた場所に残る。エイノもそう言っていた」
レンミンカイネンが二人を見下ろしている。
「俺には何も聞こえんが」
首を傾げて、川の水に手を突っ込む。しばらくじっとして、首を振った。
「やっぱり何も聞こえん。冷たいだけだ」
「歌い手にしか感じ取れないものなんだろうな」
「ふん。まあいい。川が歌おうが歌うまいが、上流に行くのは同じだ」
レンミンカイネンは手を拭いて先に歩き出した。背中に不満はない。歌の世界に入れないことを、もう受け入れている。その代わり、自分にできることで仲間を支える。そういう男だった。
三日目の夕方、森が一段と深くなった。
木々の隙間から見える空が狭くなり、苔むした岩が増え、足元に霧が這い始めた。川の音が渓谷の壁に反響して、四方八方から聞こえる。
カレの耳に、川の歌が少しずつ大きくなっていた。上流に近づくほど、水に宿るルーノの残響が濃くなっている。世界そのものが歌っているかのように。
「もうすぐだ」
カレが呟いた。
エイノの地図と照らし合わせる。ラウカ渓谷の入口は、この先の分岐を東に折れた場所にあるはずだ。
森の奥に、何かが待っている。
川の歌が、カレを呼んでいた。




