ロウヒの子守唄
夜のカラヨキは、昼とは別の顔を見せた。
港に並ぶ船の灯りが水面に映り、波がそれを揺らしている。月は薄雲の向こうに隠れ、空全体がぼんやりと青白い。潮の匂いと、どこかの酒場から漏れる笑い声。
レンミンカイネンは旧知の船乗りたちと飲みに行った。「明日には出発するんだ、最後くらい付き合わせろ」と言って消えた。
カレとアイノは、港の桟橋の端に並んで座っていた。
足元で波が規則正しく桟橋の杭を洗っている。遠くで灯台の光が回り、水面に一筋の線を引いては消す。
しばらく黙っていた。
波の音が心地よく、沈黙が苦にならなかった。サンパラからここまでの旅路で、二人の間の沈黙は少しずつ性質が変わってきている。気まずい沈黙から、穏やかな沈黙へ。
カレが口を開いた。
「アイノ」
「何」
「ポヒョラでサンポを見たことはあるか?」
アイノの指先が、膝の上で微かに動いた。カンテレがないとき、感情が揺れると指が弦を探す癖がある。
少し間があった。
「……見たことはあるわ」
アイノの声は低かった。
「でもはっきりとは覚えていない。ロウヒ——ロウヒ様がいつも結界で隠していたから。近づくことは許されなかった。遠くから見ただけ」
「どんなふうに見えた?」
「光っていた。白い光。形は……よくわからない。結界の歪みで、本当の姿が見えなかった」
アイノが膝を抱えた。足元の波を見つめている。
「ただ——一つだけ覚えていることがある」
カレは黙って待った。
「ロウヒ様がサンポの前で歌っていた」
波が桟橋を洗う音が、一瞬大きくなった気がした。
「歌っていた?」
「まるで子守唄のように。低い声で、優しく。あのロウヒ様が——あんなに厳しい人が、赤ん坊をあやすような声で歌っていた」
アイノの目が遠くなった。記憶の底を覗き込むような目。
「私がカンテレの稽古から戻ったとき、サンポの間の扉が少しだけ開いていた。その隙間から見えたの。ロウヒ様がサンポの前に跪いて、歌っていた」
「子守唄を、サンポに……」
カレの声は困惑を隠せなかった。
臼に子守唄を歌う理由がない。穀物を挽く道具に歌いかける必要がどこにある。
だが——もしサンポが臼ではないなら。
「サンポが歌を必要とするものだとしたら」
カレが呟いた。
「必要としている、というより」
アイノが言い淀んだ。
「鎮めている、ように見えた。子守唄って——眠らせるための歌でしょう。赤ん坊が泣き止むように。暴れる何かを、歌で静めるように」
風が吹いた。アイノの白銀の髪が揺れ、桟橋の灯りに光った。
「ロウヒ様は、サンポを鎮めていたのかもしれない」
二人の間に沈黙が落ちた。
波の音だけが繰り返す。灯台の光が回る。遠い酒場の笑い声が風に乗って届く。
サンポに歌いかけるロウヒの姿。支配者が、自分の道具に子守唄を歌う。
それは——サンポが「道具」ではないことの証拠ではないのか。
足音が聞こえた。
「おう、二人とも」
レンミンカイネンが波止場の方から歩いてきた。少し酒が入っているが、足取りはしっかりしている。
「いい夜だな。……何の話をしていた?」
「サンポの話」
カレが答えた。
「アイノがポヒョラでロウヒがサンポに子守唄を歌っていたのを見た、って」
レンミンカイネンが桟橋の端に腰を下ろした。長い足を投げ出し、波を見る。
「ロウヒが子守唄ねえ。あの北の魔女が」
「信じられない?」
「いや、信じるさ。アイノが言うなら」
あっさりした返答だった。レンミンカイネンは複雑なことを考える性質ではない。だがその代わり、仲間の言葉を疑わない。
「俺にはよくわからんが、大事そうな話だな」
レンミンカイネンが波の音に耳を傾けるように目を閉じた。
「サンポが臼じゃないとか、子守唄がどうとか——俺が考えても答えは出ん。でもお前たちが真剣な顔をしているってことは、大事なことなんだろう」
それだけ言って、レンミンカイネンは黙った。
三人が桟橋に座っている。波の音が繰り返す。
カレは海を見ていた。
波が桟橋を洗う音が、どこかロウヒの子守唄に似ている気がした。繰り返す波の律動。寄せては返す。眠らせるように。鎮めるように。
サンポに歌いかけるロウヒ。支配者が、なぜ自分の道具に子守唄を歌うのか。
その答えは、まだ北の闇の中にある。




