原初歌の遺跡
蒐集家の家は、港から三本ほど奥に入った路地にあった。
レンミンカイネンの案内がなければ、まず見つけられなかっただろう。看板もなく、扉は低く、壁には蔦が絡まっている。隣の建物に押しつぶされるように建つ、小さな二階建て。
「ここだ。エイノって爺さんがいる。古い歌の蒐集家だ」
「知り合い?」
「以前、酒場で一度だけ飲んだことがある。変わった爺さんだが、歌のことに関しちゃ並外れた知識を持っている」
扉を叩くと、しばらくして軋む音とともに開いた。
白髪を後ろに束ねた痩せた老人が顔を出した。背が低く、背中が曲がっている。だが目だけが鋭い。鷹のような目だった。
「誰だ」
「レンミンカイネンです。以前、鯨の酒場で」
「知らん」
「……覚えてないのか」
「酔っ払いの顔はいちいち覚えん。何の用だ」
レンミンカイネンが困った顔をしている。カレが前に出た。
「歌のことで教えていただきたいことがあります。古い歌の——原初歌に関わることです」
エイノの目が光った。
「入れ」
家の中は、想像以上に狭かった。いや、狭いのではない——物が多すぎるのだ。壁一面の棚に古い巻物が積まれ、床には石板が重ねられ、テーブルの上には解読途中の文書が散乱している。埃と古い紙の匂い。
「座れ。……そこの石板をどけて座れ」
三人は辛うじて場所を確保して座った。アイノが周囲を見回している。巻物の一つに、見覚えのある旋律模様が描かれていた。
「原初歌か」
エイノが椅子に腰を下ろした。膝の上に一枚の古い地図を広げる。
「わしは五十年、古い歌を集めてきた。各地の歌い手から、古老から、遺跡から。その中で何度か原初歌の断片に触れたことがある。触れたと言っても、記録としてだ。実物を聞いた者はおらん」
「記録がある?」
「断片だけだ。ワイナミョイネンの時代の遺跡に、原初歌の一部が刻まれているという伝承がある」
エイノが地図の一点を指差した。タルヴァス河の上流、山間の渓谷。人里から遠く離れた場所に、小さな印が記されている。
「ここだ。タルヴァス河の上流、ラウカ渓谷。苔に覆われた巨石群がある。表面に文字と旋律が刻まれていて——古い歌い手の間では『始まりの歌場』と呼ばれていた」
カレは地図に見入った。カラヨキから河を遡れば、たどり着ける距離だ。
「そこに行けば、原初歌を聞けるのか」
「聞ける、とは言えん。だが——」
エイノがカレを見た。鷹の目が、値踏みするように細まる。
「お前さんの歌を聞かせてもらえるか」
カレは戸惑った。だがエイノの目に拒否を許す色はない。
カレは短い歌を口にした。テーブルの上の燭台に向けて、ごく小さな「言葉のルーノ」を。灯火の名を囁くと、炎がふわりと形を変えた。花のように開き、一瞬だけ部屋を明るく照らして、元に戻る。
エイノが息を呑んだ。
「……言葉のルーノか。本物の。定型歌ではない、即興の歌。しかもこの精度……」
老人の目に、学者の興奮が宿った。
「お前さんの歌——言葉のルーノとやらの本質を解き明かす手がかりになるかもしれん。あの遺跡は、ワイナミョイネンの時代の歌い手が修行した場所だという伝承もある。原初歌と同質の力を持つ者なら、石が応えるかもしれん」
「ただし」
エイノの声が低くなった。
「遺跡は歌い手を試す。力なき者は跳ね返される。歌を聴く耳と、世界に問いかける覚悟がなければ、石は沈黙したままだ」
レンミンカイネンが手を挙げた。
「歌えない俺はどうなるんだ?」
「おそらく何も起きん。何も見えず、何も聞こえまい」
「それはそれで気楽だな」
軽い口調だったが、レンミンカイネンの目は笑っていなかった。仲間が体験する世界に自分だけ入れない。その疎外感を、冗談で覆い隠している。
カレは決めた。
「行きます。自分の歌の正体を知りたい」
アイノが顔を上げた。
「私も行く。カンテレで支えられることがあるかもしれない」
エイノは頷いた。棚から古い地図を取り出し、丁寧に折りたたんでカレに渡した。ラウカ渓谷への道筋が書き込まれている。
「無事に戻ってきたら、聞かせてくれ」
扉口で、エイノが言った。
「原初歌がどんな音だったか」
その目は、五十年の歳月を費やしてなお届かなかったものへの憧憬に満ちていた。




