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歌えない魔法使いは追放された ~才能ゼロの烙印を押された歌は、世界を創り変える禁呪だと誰も知らない~  作者: 蒼月よる


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臼じゃない

 老船乗りの名はヴェイッコと言った。

 白い髭を撫でながら、カレの向かいの椅子に深く座っている。杯の中の酒が揺れて、琥珀色の光を天井に映した。

「わしは若い頃、北の海を渡ったことがある」

 ヴェイッコは静かに語り始めた。酒場の喧騒がどこか遠くなる。この老人の声には、聞く者の意識を引き寄せる力があった。

「ポヒョラの近くまで行った。冬の海を三週間。乗組員の半分は凍傷で指を失くした。わしも左の小指がない」

 テーブルの上に広げた手には、確かに小指がなかった。

「それで、サンポを見たのか?」

 レンミンカイネンが酒を片手に割り込んだ。いつの間にか船乗りたちの輪を抜けてきている。

「見てはいない。だが——聞いた」

 ヴェイッコが目を細めた。

「ポヒョラの沿岸で、現地の漁師と話す機会があった。酒を交わして、少し打ち解けた頃だ。あの漁師が言ったんだ」

 老人が杯を置いた。

「『サンポは臼じゃない』と」

 カレは身を乗り出した。

「臼じゃない……?」

「ああ。もっと大きなものだと言っていた。穀物や塩を生むのは、サンポの力のほんの一部にすぎないと。あれは世界そのものに関わるものだと」

「世界そのものに……?」

 カレの声が上ずった。ヴァイノラの大ルーノラで読んだ古文書を思い出す。サンポの別名——「世界のカンテレ」。あのとき奇妙だと思ったのだ。臼に楽器の名がつく理由がわからなかった。

 だがもしサンポが臼でないのなら。

 隣でアイノの表情が強張った。

 カレはそれに気づいた。アイノはポヒョラの出身だ。サンポを間近で見たことがあるはずだった。その彼女が、何かに引っかかるような顔をしている。

「アイノ?」

 声をかけると、アイノは一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。

「……なんでもない」

 ヴェイッコが話を続けた。

「あの漁師は翌朝にはいなくなっていた。ポヒョラの連中は口が堅い。あれ以上のことはわしにもわからん。だが——お前さんが歌い手なら、覚えておくがいい。北に行くなら、サンポを臼だと思って近づくな。あれは、そんな小さなものじゃない」

 ヴェイッコはそれだけ言うと、杯を空にして立ち上がった。背を丸めて酒場の出口に向かう後ろ姿は、ただの老いた船乗りにしか見えなかった。


 酒場を出た。

 夜の港が潮の匂いを運んでくる。遠い灯台の光が水面に筋を引いている。

 三人は桟橋の端に腰を下ろした。波の音が規則正しく繰り返している。

「サンポが臼じゃないなら、何なんだ」

 カレが呟いた。頭の中を、古文書の記述が巡っている。「世界のカンテレ」——世界を奏でる楽器。穀物を挽く臼とは似ても似つかない。

「臼でも楽器でも、取り戻すことに変わりはないだろ」

 レンミンカイネンが実利的に言った。

「取り戻した後にどう使うかは、正体がわかってからでいい。今は場所を見つけるのが先だ」

 正論だった。だがカレの中で、何かが引っかかっている。サンポが単なる富を生む道具ではないなら——奪還したとしても、どう扱えばいいのか。

 アイノが沈黙している。

 桟橋の縁に座り、足をぶらぶらさせながら海を見ている。だがその目は海を見ていない。もっと遠い何かを見ている。もっと昔の何かを。

「アイノ」

 カレが声をかけた。

「さっき、何か思い当たることがあったんじゃないか」

 アイノの肩が微かに動いた。

 長い沈黙があった。波が桟橋を洗う音だけが続く。

「……わからない」

 アイノが言った。声がいつもより低い。

「わからないの。ポヒョラでサンポを見たことはある。でも、はっきりとは覚えていない。ロウヒ様が——ロウヒがいつも結界で隠していたから」

 言い直したのは、「様」と呼びそうになったからだろう。ポヒョラでの癖が出る。カレはそれには触れなかった。

「ただ——何か、引っかかるものがある。思い出しそうで思い出せない。ここの端まで来ているのに」

 アイノが自分のこめかみを指で叩いた。苛立ちと、何か別の感情が混じった仕草だった。

「急がなくていいよ」

 カレが言った。

「思い出せるときに、思い出してくれたら」

 アイノが横目でカレを見た。何か言いたそうにして、やめた。

 宿に戻る道すがら、カレはアイノの横顔を見ていた。

 白銀の髪が夜風に揺れ、表情が月明かりに照らされている。考え込んでいる顔。記憶の奥を手探りで探るような、真剣な横顔。

 サンポが臼ではないなら——アイノがポヒョラで見たあれは、一体何だったのか。

 記憶の奥で何かが蠢いている。まだ形にならない。だがいつか、それは浮かび上がってくるだろう。

 カレにはそんな予感があった。


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