些細な空白
サンパラを出て五日が経った。
街道は南西に延び、起伏の緩やかな丘陵地帯を抜けていく。木々の葉が秋の色に染まり始め、朝晩の冷え込みが増していた。飢饉の影響か、すれ違う旅人の数は少ない。
三人の旅は一つのリズムを刻んでいた。レンミンカイネンが先頭で斥候を兼ね、カレが地図と方角を確認し、アイノが後方で気配を探る。休憩のたびにレンミンカイネンが何か食えるものを探しに行き、カレが火を灯し、アイノが湯を沸かす。
その日の昼、三人は道端の切り株に腰を下ろして休んでいた。
レンミンカイネンが干し肉を噛みながら、ふと笑った。
「なあカレ。あの酒場で初めて会った時、俺なんて言ったっけ」
何気ない問いかけだった。数日前の出来事を振り返る、ただの雑談。
カレは答えようとした。
口を開いて——言葉が出なかった。
酒場。サンパラの、鍛冶師たちが集まる酒場。レンミンカイネンが立ち上がって、カレのテーブルに歩いてきて——何と言ったのか。
覚えていない。
「あのとき、最初に何て言ったんだっけ……」
声に出してしまった。数日前のことだ。鮮明に覚えているはずの出来事なのに、レンミンカイネンの最初の一言だけが——ぽっかりと抜け落ちている。
「忘れんなよ。『俺と戦え』って言ったんだよ」
レンミンカイネンが笑い飛ばした。「面白い奴を探してた、って。覚えてねえのか? ひでえな」
「そうだった、そうだった」
カレも笑った。そうだ、そう言っていた。言われてみれば思い出す。いや——本当に思い出したのか。レンミンカイネンに教えられた言葉を、自分の記憶として受け入れただけではないか。
その区別が、つかなかった。
「ぼんやりしてんじゃねえよ。旅の途中でぼーっとしてると足元掬われるぞ」
「ああ、わかってる」
レンミンカイネンが先に歩き出した。アイノもカンテレを背負い直して立ち上がる。
カレは少し遅れた。
二人の背中を見ながら、立ち止まっていた。
疲れているのだろうか。サンパラの防衛戦で歌い過ぎた。あの日は今まで一番歌った。喉が枯れるほど歌い、レンミンカイネンの剣を強化し、ヒーシの群れに名づけの歌を放ち続けた。その疲れがまだ残っているのかもしれない。
「最近、思い出せないことが多い気がする」
呟いた。声には出さなかった。
ヴァイノラでの出来事は覚えている。アイノとの出会いも覚えている。サンパラの宝物庫でイルマリネンの作品に触れた感触も、鮮明に残っている。
だが——細部が曖昧になっている箇所がある。旅先で泊まった宿の名前。すれ違った旅人の顔。些細なことだ。誰でも忘れる程度の、取るに足らない記憶。
気のせいだ。
カレは首を振り、二人を追いかけた。
「何してるの、遅いわよ」
アイノが振り返った。
「なんでもない」
カレは笑った。
その笑顔に僅かな翳りが混じっていることに、誰も気づかなかった。
夕暮れ、野営地で焚き火を囲んだ。レンミンカイネンが仕留めた野鳥を焼き、アイノが薬草茶を淹れ、カレが火の番をした。
今日一日何を歌ったか、全て覚えている。何を食べたかも覚えている。三人で笑ったことも、アイノに「遅い」と叱られたことも。
ただ——レンミンカイネンの最初の一言だけが、記憶から抜け落ちていた。
些細なことだ。
だが、些細なことが積もれば——。
カレは焚き火の炎を見つめた。揺れる光に照らされた自分の手を見る。この手で歌った。この声で世界を変えた。その代わりに何かを差し出しているのだとしたら。
いや。気のせいだ。
カレはその考えを振り払い、毛布を引き寄せた。




