焚き火の夜
その夜は、静かだった。
山を下りた先の平地に野営地を見つけた。小さな沢が流れ、その脇に草地が広がっている。カレが歌で焚き火を灯し、アイノが沢から水を汲んだ。いつの間にか、こうした役割分担が自然にできるようになっていた。
焚き火を挟んで向かい合う。干し肉と保存パン。質素な夕食だが、火があるだけで十分だった。
食事を終えた後も、二人は焚き火の傍を離れなかった。夜の冷気が肌を刺す季節だ。炎の温かさが心地いい。
しばらく無言が続いた。
だがこの沈黙は、旅を始めた頃のぎこちないものとは違った。互いの存在を認めた上での、穏やかな沈黙。焚き火がはぜる音と、沢のせせらぎだけが聞こえる。
カレがぽつりと口を開いた。
「俺がソルミ村を追放されたのは、十九の春だった」
アイノが顔を上げた。カレは焚き火を見つめたまま続けた。
「小さい頃から歌えなかった。定型歌を教わっても、どうしても言葉が変わっちまう。先生に叱られて、やり直して、また叱られて。三回測定を受けて、三回とも才能ゼロだった」
炎が揺れた。カレの声は淡々としていた。何度も頭の中で反芻した記憶だからか。それとも——少しだけ、距離を置けるようになったからか。
「村では才能のない者は口減らしとして追放される慣習がある。村長が集会で宣告した。父さんは俯いて何も言わなかった。母さんは泣いてた。でも……止めてくれなかった」
「……」
「誰も見送りに来なかった。村の入口を一人で歩いて、振り返っても人影はなくて。あの日のことは——忘れられない。忘れたくもない」
焚き火がはぜた。
アイノが黙って聞いていた。膝を抱え、火を見つめている。その目に何かの感情が揺れていたが、カレには読み取れなかった。
「……ソルミ村って最悪ね」
アイノが吐き捨てるように言った。
短い言葉だった。だがそこに含まれていたのは、同情ではなかった。怒りだった。カレの代わりに怒ってくれている。そう感じた。
それがカレには、少し嬉しかった。
焚き火に枝を足した。炎が一瞬大きくなり、二人の影が背後の木々に揺れた。
「アイノは……ポヒョラでどんな生活をしてたんだ?」
訊いていいのかわからなかった。だが今なら——訊ける気がした。
アイノは少し間を置いた。カンテレの弦に指を添えたまま、何かを選ぶように沈黙した。
「……歌わされてた」
短い答えだった。
「ロウヒ様のために」
それ以上は語らなかった。だがその一言に、多くのものが詰まっていた。
歌わされていた。自分の意志ではなく、誰かの命令で歌わされていた。カレは歌えなくて追放された。アイノは歌わされて逃げ出した。
方向は逆だ。
だが傷の形が——似ていた。
居場所を奪われた少年と、自由を奪われた少女。歌が人生を歪めた者同士。言葉にはしなかったが、焚き火を挟んで、互いの痛みの輪郭が重なった。
沈黙が続いた。焚き火がはぜる音だけが響く。
カレは口を開いた。言葉を選ぶように、一度飲み込んでから、出し直した。
「アイノ」
「何」
「……いい名前だな」
何の脈絡もない言葉だった。自分でも馬鹿なことを言ったと思った。
「何よ急に」
アイノが呆れた声を出した。だが火の向こうで——目元が少しだけ緩んだのを、カレは見逃さなかった。
夜が更けた。星が瞬き、焚き火が小さくなっていく。
アイノが先に毛布にくるまった。背をカレに向けて横たわる。
しばらくして、小さな声がした。
「おやすみ」
旅を始めて初めて、アイノがカレにそう言った。
些細な言葉だった。たった四文字の、何でもない夜の挨拶。
だがカレの胸に、温かいものが広がった。
「おやすみ、アイノ」
焚き火が静かに燃えていた。二人の距離が、もう少しだけ縮まった夜だった。




