真の名
森が深くなったのは、山道に入ってからだった。
サンパラへ向かう道は低い山地を越える必要があり、街道から外れた獣道を歩いていた。木々の枝が空を覆い、昼でも薄暗い。地面は苔と落ち葉に覆われ、足音が吸い込まれるように消えた。
アイノが足を止めた。
「……気配がする」
カレも感じていた。空気が変わっている。森の匂いに混じって、何か別のもの——酸っぱくて、冷たくて、嫌な匂いが漂っている。
「ヒーシか?」
「小型よ。たぶん一匹」
ヒーシ。カレヴァの地に棲まう魔物の総称。サンポの喪失後、各地で数を増している。小型のヒーシは牙と爪を持つ獣に似た姿で、単体ならばルーノイヤでなくとも対処できるが——旅人を襲う厄介な存在だった。
茂みが揺れた。
灰色の毛皮、黄色い目。犬ほどの大きさの魔物が茂みから飛び出した。牙を剥き、低い唸り声を上げている。
カレは咄嗟に歌おうとした。風を呼ぶか、石を飛ばすか——だが制御が間に合わない。心の中のリズムを整える前に、ヒーシが地面を蹴った。
跳躍。
カレに向かって突っ込んでくる灰色の塊。
アイノのカンテレが鳴った。鋭い一音。音の壁がカレとヒーシの間に立ちはだかり、魔物を弾き飛ばした。ヒーシが地面を転がり、すぐに体勢を立て直す。
「ぼうっとしないで!」
アイノの叱責が飛ぶ。
カレは目を閉じた。
風でも石でもない。あの魔物の——本質を。
樹歌いの言葉が脳裏をよぎった。名前を呼べば、応える。
真の名を感じ取ろうとした。ヒーシの本質。黄色い目の奥にあるもの。飢え。怒り。恐れ。森の奥で生まれ、何に追われるように南に下ってきた存在。ポヒョラの影が広がる中で居場所を失った魔物。
名前が——見えた。
カレが口を開いた。
定型歌ではない。旋律もない。ただ一つの言葉——ヒーシの真の名を、口にした。
ヒーシの動きがぴたりと止まった。
跳びかかろうとしていた姿勢のまま、石像のように凍りついた。黄色い目だけが動いて、カレを見ている。恐怖の色が浮かんでいた。自分の名前を——存在の本質を言い当てられたことへの、根源的な恐怖。
数秒。
長い数秒だった。カレは息を止めていた。ヒーシも動かない。名前の力が魔物を縛りつけている。
だがそれは長くは持たなかった。
縛りが解けた。名前の力がすり抜けるように薄れ、ヒーシの体が動き始めた。だが攻撃ではなく——逃走だった。ヒーシは怯えたように身をひるがえし、茂みの中に消えた。
静寂が戻った。
カレは荒い息をついていた。心臓がうるさく打っている。
「……今の、何?」
アイノの声がした。
「定型歌じゃないのに、あのヒーシは完全に止まった。あんた、何をしたの?」
「なんとなく……名前がわかった気がした」
「名前?」
「あのヒーシの——名前。本当の名前。それを口にしたら、止まった」
アイノが目を細めた。カンテレを抱えたまま、カレをじっと見ている。
「名づけの歌……いえ、まだ歌とも呼べないわね。でも——」
アイノは言葉を切った。何かを考え込んでいる様子だった。
「あんたの力は、名前に関わるものなのかもしれないわ。真の名を呼ぶことで対象を縛る。それは定型歌とは根本的に違う体系よ」
カレは自分の手を見つめた。
名前を言い当てる。それが自分の歌の本質に関わる何かだという直感があった。ヴァイノラの古文書にあった「言葉の力を持つ者——対象の真の名を呼び、世界を書き換える者」。あの記述と、今起きたことが重なる。
だがまだ不完全だ。ヒーシの動きを止めたのは数秒だけ。名前の力を維持することも、応用することもできない。萌芽にすぎない。
山を下り始めた。森の空気が少し軽くなった。
「カレ」
アイノが名前を呼んだ。珍しいことだった。
「何?」
「あの力、もっと鍛えなさい。使い物になりそうよ」
褒めているのかけなしているのかわからない言い方だったが、カレは頷いた。
名前を言い当てる。
その正体はまだ霧の向こうにある。だが霧は——少しだけ薄くなった。




