水歌い、樹歌い
ヴァイノラを出てからの街道は、景色が変わった。
タルヴァス河を離れ、西に向かうにつれて平地は丘陵へ、丘陵は低い山地へと変わっていく。道は狭くなり、森が深くなった。カレヴァの地の中央から西部へ。歌学の都から鍛冶の街へ。
その道中で、カレは「歌の多様さ」を知った。
最初に出会ったのは、海辺の漁村だった。
街道が一時的に海岸沿いに出る区間があり、そこに小さな漁村が張りついていた。十数軒の漁師小屋と桟橋。干し網と貝殻の匂い。
漁師たちが歌いながら網を打っていた。
定型歌だった——だがカレが知る定型歌とは微妙に違う。旋律の運びが独特で、リズムが波の音と同期している。言葉の中に漁師特有の単語が混じり、意味の通らない掛け声が挟まれる。
「あれは何ですか」
カレは桟橋にいた老漁師に訊いた。
「水歌いの歌だよ」
「水歌い?」
「海を読む歌だ。潮の流れ、魚の群れ、嵐の前触れ。全部歌で感じ取る。ヴァイノラの歌とは違う。海が教えてくれた歌だからな」
老漁師が笑った。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。歌学院で学んだ歌術師ではない。海と暮らしの中で歌を磨いてきた、生活の歌い手。
「ヴァイノラの学者連中は馬鹿にするがね。おれたちの歌は、おれたちの海でしか通じない。だがこの海では、あいつらの定型歌よりよっぽど役に立つ」
カレは網打ちの歌を聴いた。水面が微かに光り、魚の群れが寄ってくるのが見えた。大きな力ではない。だが確かにルーノが作用している。海に特化した、この土地だけの歌。
同じ定型歌でも、場所によって形が変わる。
漁村を後にした翌日、森の中の集落で「樹歌い」に出会った。
木こりが歌いながら木を倒していた。斧を振る前に、木に向かって歌う。低い声。ゆっくりとした旋律。まるで木に語りかけているように聞こえた。
「何を歌ってるんですか」
「木に許しを乞うてるんだ」
樹歌いの木こりが斧を肩に担いで答えた。
「木にも名前がある。名前を呼んで、倒す理由を伝える。そうすれば木は苦しまずに倒れてくれる。感謝と対話の歌だ」
「名前……」
カレは反射的に反応した。名前を呼べば、木は応える。それは——カレが感じ取る「真の名」と通じるものがあった。
「木の名前は、どうやって知るんですか」
「触ればわかるさ。この木は何年生きて、どこに根を張って、どの季節が好きか。全部、幹を触ればわかる」
樹歌いが一本の白樺に手を添えた。目を閉じ、低い声で歌い始めた。白樺の葉がさわさわと揺れた。風ではない。木自身が応えているように見えた。
歌にはたくさんの形がある。
水歌い。樹歌い。流しのルーノイヤ。ヴァイノラの定型歌。ポヒョラの音のルーノ。そしてカレの言葉のルーノ。
どれが正しくてどれが間違っているということではない。世界は一つの歌で歌えるほど単純ではなく、それぞれの場所に、それぞれの歌がある。
「やっと気づいたの」
アイノが呆れたように言った。だがその声に棘はなかった。
「俺の歌も——形の一つなんだな」
「当たり前でしょ。最初からそう言ってるじゃない」
言ってない。一度もそんなことは言っていない。だがカレは言い返さなかった。アイノなりの肯定の仕方なのだと、わかり始めていた。
樹歌いが別れ際に言った。
「北のサンパラの鍛冶師たちは、鉄に歌を打ち込むらしい。あれもまた歌の形の一つだ」
鉄に歌を打ち込む。
サンパラが近づいている。そこにはまた別の歌の形が待っている。




