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歌えない魔法使いは追放された ~才能ゼロの烙印を押された歌は、世界を創り変える禁呪だと誰も知らない~  作者: 蒼月よる


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忘れた名前

 朝になると、カレは小さな歌で道の石をどけた。


 アイノのリズムを思い出しながら、心の中で拍を刻む。一拍、二拍、三拍。その間に石の真の名を呼ぶ。石がころりと転がって道の脇に退いた。吹き飛ばない。砕けない。


「少しは上達したじゃない」


 アイノが横目で見て言った。褒めているのか呆れているのか判別がつかない口調だった。


「まだ全然だけどな」


「自覚があるだけマシよ」


 街道を歩きながら、カレは小さな練習を繰り返した。枝を曲げる。水袋の水を揺らす。風を一瞬だけ頬に感じさせる。どれも些細な歌だが、昨日までは暴発していたものばかりだ。


 伴奏のコツが体に馴染み始めている。アイノのカンテレがなくても、心の中のリズムで歌を繋ぎ止めておける。完璧には程遠いが、方向は合っている。


 昼前、アイノがふと口を開いた。


「昨日の集落、水はまだ持つかしら」


 カレは歩みを止めた。


 昨日の集落。井戸に水を湧かせた——いや、違う。それは一昨日だったか。昨日はどこを通ったのだろう。集落の名前は——


「昨日の集落……えっと、名前なんだったっけ」


「は? 昨日泊まった場所の名前を忘れたの?」


「いや、泊まったっていうか通り過ぎただけだろ。名前の看板があった気がするけど……」


 思い出せない。昨日通った場所の名前が、すっぽり抜け落ちている。景色は——ぼんやりと覚えている。街道脇に小さな家が数軒。誰かが手を振っていた気がする。だが名前が出てこない。


「疲れてるのかな」


 カレは首を傾げて、歩き始めた。


 アイノは特に気にした様子はなかった。「しっかりしなさいよ」と言っただけで、話題は先の行程に移った。


 何でもないことだ。旅を始めてまだ日が浅い。毎日歩き通しで、練習も重ねている。疲れが溜まれば記憶も曖昧になる。それだけのことだ。


 カレはそう思い流した。


 ——歌うたびに記憶が削られていることに、まだ気づいていない。


 午後は穏やかだった。街道が丘陵地帯に入り、見晴らしがよくなった。遠くにタルヴァス河の流れが光って見える。あの河に沿って西へ行けば、やがてヴァイノラに着く。


「ヴァイノラまであと何日だ?」


「このペースなら四、五日ってところね」


「歌学の都か……どんな場所なんだろう」


「大きな街よ。カレヴァ最大のルーノラがある。歌堂っていう、歌の力を増幅する建物が立ち並んでるって聞いたわ」


「歌堂?」


「ポヒョラにはないもの。カレヴァの歌い手は建物にまでルーノを使うのよ。贅沢な話」


 アイノの声に微かな皮肉が混じった。ポヒョラでは歌は生き延びるための道具であり、建物を飾るような余裕はなかったのだろう。


 夕暮れが近づき、丘の中腹に野営地を見つけた。


 カレが焚き火を灯した。歌で。心の中のリズムに合わせて、小さな炎を呼ぶ。火は穏やかに燃え上がった。二日前に暴発させた水とは大違いだ。


「……悪くないわね」


 アイノが火に手をかざしながら、小さく言った。


 干し肉を炙り、水袋の水で喉を潤す。簡素な夕食だが、温かい火があるだけで心が休まる。


「明日の行程なんだけど」


 アイノが地面に枝で簡単な地図を描き始めた。


「ここから西に三日ほど歩くと、タルヴァス河の大きな渡しがある。そこを越えればヴァイノラはすぐよ」


「渡し? 橋はないのか」


「飢饉の前はあったらしいけど、今は朽ちて落ちたって噂よ。渡し船を使うしかないわ」


「船代は……」


「あんたの歌で何か手伝えば、ただにしてもらえるかもしれないわね。暴発しなければだけど」


「しないよ。たぶん」


「たぶん、が余計」


 カレは笑った。小さな笑い。旅を始めてから初めて、自然に笑えた気がした。


 焚き火の向こうにアイノの横顔が見える。編んだ白銀の髪が炎の光を受けて揺れている。紫がかった青い瞳が、描いた地図を見下ろしている。


 一緒に旅してくれて、ありがとう。


 その言葉が喉元まで上がってきて——カレは飲み込んだ。今言えば、きっとアイノは怒る。「感謝なんて求めてない」と。


 だからカレは黙って焚き火を見つめた。


 炎が揺れる。温かい。穏やかな夜だ。


 ふと、空を見上げた。


 星が綺麗だった。冬の空に散りばめられた光の粒。手を伸ばせば届きそうなほど近く、鮮やかに瞬いている。


 昨夜も星を見た。見たはずだ。だがその記憶がぼんやりとしている。昨夜の星空がどんなだったか、もう覚えていない。


 それが不思議なことだとは、カレはまだ気づいていなかった。


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