歌堂の都
ヴァイノラは、歌の匂いがする街だった。
丘の上に立ったとき、カレは息を呑んだ。
眼下にタルヴァス河が蛇行しながら流れ、その河畔に石造りの都市が広がっていた。白い壁と灰色の屋根が幾重にも重なり、その中に——歌堂が聳えている。
歌堂。
塔のようで塔ではない。教会のようで教会でもない。ルーノの響きを増幅するために設計された、歌のための建築物。石の壁面に旋律の紋様が彫り込まれ、遠くからでも建物自体がかすかに振動しているのがわかった。
一つではない。五つ、六つ——数えきれない歌堂がヴァイノラの街並みの中に立ち並んでいる。
「こんな場所があるなんて……」
カレは呟いた。ソルミ村の小さなルーノラ分校しか知らなかった。カトゥマ廃村の静けさしか知らなかった。世界にはこれほどの規模でルーノの文化が花開いた場所があるのだ。
隣のアイノも目を見開いていた。
「ポヒョラとも違うわ。あっちは力。ここは——文化」
短い言葉だったが、的確だった。ポヒョラではルーノは支配と生存の道具だった。ヴァイノラではルーノが芸術にまで昇華されている。建物にまで歌を込める余裕がある。それはカレヴァの豊かさの証であり、同時に——サンポが失われた今、急速に衰えつつあるものの残照でもあった。
丘を下り、街に入った。
石畳の街路を歩く人々の中に、歌い手の姿が多かった。定型歌の旋律を口ずさみながら歩く者、楽器を抱えた者、歌学院の制服を着た若い学生たち。カレヴァの他のどの場所よりも、ルーノイヤの密度が高い。
だが——飢饉の影はここにも落ちていた。
街の外縁には難民の天幕が並び、物乞いの手が道行く人に伸びていた。石造りの建物の壁には「食料の配給は一日一回」と書かれた張り紙。歌の都も、サンポの喪失から逃れられてはいなかった。
「歌堂を見てみたい」
カレの口からそう出た。アイノが「そう来ると思った」と肩をすくめた。
最も大きな歌堂は大ルーノラ(歌学院)の敷地に隣接していた。旅人でも見学できるらしく、門の前に案内の立て札があった。
中に入った瞬間、空気が変わった。
天井の高い石造りの空間。壁面には定型歌の旋律模様が精緻に彫り込まれている。光が上方の窓から差し込み、石の表面を這うように流れていた。
案内人が歌堂の仕組みを説明した。
「この建築は歌の響きを増幅するために設計されています。壁に刻まれた旋律模様がルーノの波を受け止め、共振させ、効果を何倍にも高める。歌術師がこの中で歌えば、野外の数倍から数十倍の効果が得られます」
すごい。カレは素直に感嘆した。ルーノの力を建築術にまで応用する発想。歌と石と光が一体になった空間。
だがカレの意識は案内人の説明とは別の場所に引きつけられていた。
壁だ。
石の壁に手を触れた。冷たい石の感触の奥に——何かがある。
「歌ってる」
「え?」
アイノが振り返った。
「この石。歌ってる」
カレの「真の名」を感じ取る直感が反応していた。壁に刻まれた旋律模様は、ただの装飾ではない。数百年——もしかしたら数千年前に刻まれたルーノが、石の中で微かに振動し続けている。眠っているのではない。生きている。
「何か感じるの?」
アイノが訊いた。
「うん……この石、生きてる。誰かが昔ここに歌を閉じ込めた。その歌がまだ震えてる。かすかに、だけど」
案内人が不思議そうな顔をした。壁の振動を感じ取れる者は珍しいらしい。
カレは壁から手を離さなかった。石の歌が指先を通じてカレの中に流れ込んでくる。古い歌だ。今の定型歌とは違う旋律。もっと原始的で、もっと力強い——だがカレには読み解けなかった。ただ「そこにある」ことだけがわかった。
歌堂を出ると、夕日が街を赤く染めていた。
カレの胸に興奮が渦巻いていた。同時に不安も。
「ここにはすごい歌い手がたくさんいるんだろうな」
大ルーノラの塔が夕日に照らされて聳えている。カレヴァ最高位の歌学院。ここには定型歌を極めた歌い手たちが集まっている。
「俺の歌は——ここで通用するのか」
アイノが何も答えなかったのは、答えを知らなかったからか。それとも——答えが残酷だと知っていたからか。




