歌えなくなる日
その老人は、街道の真ん中に座っていた。
日が傾きかけた午後のことだった。カレとアイノが並んで歩いていると、道の脇の切り株に腰を下ろした人影が見えた。白髪を風になびかせ、旅塵にまみれた外套を纏い、背中に古びた竪琴を背負っている。
旅の歌い手——流しのルーノイヤだ。
カレヴァの地には各地を巡って歌を届ける歌い手がいると聞いたことがある。ルーノラに属さず、街道を渡り歩き、集落から集落へ歌を運ぶ。吟遊詩人とも放浪者とも呼ばれる、古い時代からの歌い手の姿。
「やあ、若い旅人」
老人がカレたちに気づいて手を上げた。皺の深い顔に人懐こい笑みが浮かんでいる。
「一夜の焚き火を共にせんか。老いぼれ一人では火も寂しい」
カレはアイノを見た。アイノは肩をすくめた。「あんたが決めなさい」
「お願いします」
三人は街道脇の草地で焚き火を囲んだ。老ルーノイヤが定型歌で炎を灯した。短い詠唱、正確な旋律。腕は見事だった。だが——灯った炎は小さかった。手のひらほどの火が、なかなか大きくならない。
「ふうむ」
老人は息を吹きかけ、枯れ枝を足して、ようやく焚き火の体裁が整った。
「すみませんな。昔はもっと大きな火を一息で灯せたのだが」
アイノがカレの耳元で囁いた。
「あの人の歌、上手いのに力が弱い」
カレも感じていた。定型歌の精度は高い。言葉の選び方、旋律の運び方、呼吸の取り方。どれも長年の経験に裏打ちされた確かな技術だった。なのに効果が小さい。
飢饉のせいだ。
サンポが失われ、世界のルーノの循環が滞っている。大地が枯れるように、歌の力もまた衰えている。
「あなたは、長く旅を?」
カレが訊いた。
「もう四十年になるかの。若い頃、ヴァイノラのルーノラで学んだが、あの堅苦しい場所には馴染めんでな。それから各地を歩いて、歌を届けてきた」
老人の目が焚き火に映って揺れた。
「村から村へ。歌で病を癒し、歌で種を蒔き、歌で嵐を鎮める。それがわしの生き方だった。歌さえあれば、どこにでも居場所があった」
「今は……?」
「今は」老人が苦笑した。「かつての半分も歌えん」
焚き火がはぜた。沈黙が落ちた。
「サンポが失われてから、ルーノが薄くなっておる。同じ歌を歌っても、昔の半分の力しか出ない。治癒の歌は傷口を塞ぐのがやっと。嵐鎮めの歌は小雨を止めるのが精一杯。歌い手にとって、これほど辛いことはない」
老人の声に震えがあった。
カレの胸に冷たいものが落ちた。
「歌は……なくなることもあるんですか」
「歌は世界と共にある」
老人は焚き火を見つめたまま言った。
「世界が衰えれば歌も衰える。世界が満ちれば歌も満ちる。わしらルーノイヤは、世界の力を借りて歌っておるにすぎん。天賦の才だの、鍛えた技だの言うても、根っこの部分は世界からの借り物よ」
天賦の特権は、永遠ではない。
カレはその言葉の重さを噛みしめた。力が衰えたとき、歌い手は何者なのか。歌えなくなった歌い手に、居場所はあるのか。
アイノが黙ってカンテレの弦に指を添えた。何も弾かない。ただ触れているだけだった。ポヒョラで「歌わされていた」と言ったアイノにとって、この問いはカレとは違う響きを持つのだろう。
夜が更けた。老人が先に眠りについた。穏やかな寝息。四十年の旅路を歩いてきた歌い手の、疲れた背中。
翌朝、別れの時が来た。
老ルーノイヤが荷を背負い、東の道を指さした。
「わしは東へ行く。まだ歌える村がある」
「半分の力でも、ですか」
「半分でもな」老人が笑った。「歌えるうちは、歌い手だ」
去り際、老人がふと足を止めた。振り返り、カレの目をまっすぐに見た。
「若者よ。お前の歌は定型歌ではないな」
カレの心臓が跳ねた。
「昨夜、お前が焚き火に小さな歌を送ったのを聞いた。あれは——わしの知るどの定型歌にも当てはまらん。だが、世界は応えておった」
老人はにこりと笑った。
「大事にしろ、その歌を。世界が応える歌は、滅多にないぞ」
白髪の後ろ姿が朝霧の中に消えていく。
カレは道の真ん中に立ち尽くしていた。自分の歌の異質さを見抜く者がいた。それも、四十年街道を歩いた歌い手が。
「何をぼうっとしてるの。行くわよ」
アイノの声に我に返った。
西の道を歩き始めた。頭の中に老人の言葉が残っている。
——大事にしろ、その歌を。
大事にする。その方法を、まだ知らないけれど。




