必ず帰る
旅立ちの朝は、静かだった。
カレは夜明け前に目を覚ました。荷はすでにまとめてある。食料、水袋、予備の外套。ロヴィアタルの杖を迷った末に置いていくことにした。杖に刻まれたルーノの紋様は気になったが、今の自分には読み解けない。いつか戻ってきた時に、改めて向き合えばいい。
外に出ると、アイノがもう廃村の入口に立っていた。カンテレを背負い、ポヒョラの厚手の外套をまとっている。準備は万端らしい。
「遅い」
「まだ夜明け前だぞ」
「私はもっと前から起きてたの」
いつも通りの調子だった。それが少しだけ、ありがたかった。
廃村の人々が集まってきた。多くはない。だが——ここで暮らす全員が出てきていた。
セッポが食料の詰まった袋と、毛皮の外套を差し出した。
「ロヴィアタルの弟子なら、ワシらの恩人だ。少ないが持っていけ」
「セッポさん、これはあんたたちの——」
「受け取れ。年寄りの言うことは聞くもんだ」
ロヴィアタルと同じ言い方だった。カレは受け取った。手が震えた。
ソルミ村を追放された朝のことを思い出していた。
あの日、誰も見送りに来なかった。村の入口を一人で歩き、振り返っても人影はなく、追放された者に向ける言葉を誰も持っていなかった。才能ゼロの少年は、静かに消えるように村を出た。
今は違う。
マルヤが駆けてきた。花を一輪、カレの手に押し込んだ。
「帰ってきてね。約束だよ」
ヴェイッコが袖を引っ張った。
「歌い手のにいちゃん、帰ってくる?」
カレの胸に熱いものが込み上げた。喉が詰まった。
帰ってこいと言ってくれる場所ができた。
ロヴィアタルが命をかけて守った場所。カレが初めて居場所と呼べた場所。今ここに立つ人々は、カレを「才能ゼロ」として見ていない。歌い手として——仲間として——見送ってくれている。
カレはヴェイッコの頭に手を置いた。
「ああ」
そして振り返った。
半壊した廃村。崩れた家屋の横に、季節外れの緑が広がっている。壊れたものと、生まれたもの。ロヴィアタルが守り続けた場所は、傷だらけだが——まだ、ここにある。
カレは声を張った。
「必ず帰る」
歌い手としてではなく、ただの青年としての、飾らない誓いだった。言葉のルーノではない。世界を動かす力もない。ただの言葉だ。だがカレがこれまでの人生で口にした中で、最も重い言葉だった。
セッポが頷いた。マルヤが泣き笑いの顔をした。ヴェイッコが手を振った。
カレは前を向いた。
アイノが横にいた。彼女は廃村の人々を見ていなかった。前を——西の道を見ていた。
「大きな約束ね」
皮肉めかした声。だがその目は笑っていなかった。
アイノには帰る場所がない。ポヒョラは故郷だが、帰る場所ではない。カレが「必ず帰る」と誓える場所を持っていることが、彼女にはまぶしいのかもしれない。あるいは——少し、羨ましいのかもしれない。
二人が西へ歩き出した。
目指すはヴァイノラ——歌学の都。カレの力を制御する術を学ぶために。サンポ奪還への第一歩として。
しばらく無言で歩いた。朝霧の中を、二人分の足音だけが響く。
「なあ、ヴァイノラってどのくらいかかるんだ」
「あたしの足なら十日。あんたの足なら……二十日?」
「俺の足を何だと思ってる」
「見たままよ」
カレは言い返そうとして、やめた。街道の脇に目をやった。
風が吹いていた。冷たい冬の風だが、そこにかすかに——春の気配が混じっている。カレの歌が呼んだ春の余韻。あの覚醒の名残が、まだ大地に残っていた。
歩きながら、ロヴィアタルの最後の言葉を思い返した。
「サンポを……取り戻すのではなく……」
続きはわからない。師が何を伝えようとしたのか。「取り戻すのではなく」——ではなく、何をすべきなのか。
答えはまだ遠い。だが必ず辿り着く。師が伝えようとした答えに。
カレは前を向いた。
隣にはアイノがいる。信頼ではなく利害の一致で結ばれた、不安定な同行者。だが一人ではない。
背中にはカトゥマ廃村がある。「必ず帰る」と誓った場所。
胸の中にはロヴィアタルの歌の残響がある。温かく、悲しく、力強い残響。師が最後に遺してくれたもの。
カレはふと足を止めた。何かを忘れている気がした。さっきまで考えていたことが——何だったか。首を傾げ、思い出そうとしたが、掴めなかった。まあいい、と歩き出した。
西へ向かう二つの影が、朝霧の中に溶けていく。
Part 1「旅立ちの歌」、了。




