春を待つ眠り
カレの歌が全方位に響いた。
それは声というより、世界の鼓動だった。カレの言葉に呼応して、大地が脈打ち、空気が震え、空が色を変えていく。
「氷よ」
カレは氷に向かって歌った。
「お前の名は死ではない」
霜の歌い手たちが紡いだ氷——それは冷酷な殺意の結晶だった。だがカレの言葉は、その本質を暴いた。氷は死ではない。氷は——
「お前は眠りだ。春を待つ眠りだ」
同じ言葉を、カレは一度だけ歌ったことがある。アイノとの共鳴の最中に。あの時は二人の力が合わさって、初めて効果を生んだ。
だが今は違った。
カレ一人の声で——桁違いの規模で——世界が応答した。
廃村を覆っていた氷が、一斉に変質し始めた。白い氷の表面に透明な水の膜が広がり、ゆっくりと、だが確実に溶けていく。凍りついた家屋の壁から水が滴り、地面を覆っていた霜が露に変わる。
空気が温まった。真冬の只中に、春の息吹が吹き込んだ。大地が震え、凍った土の下から草が芽吹く。枯れ木の枝先に小さな蕾が膨らみ始めた。カレの歌が季節を書き換えている——冬の中に、春を呼び込んでいる。
「——ありえない」
霜の歌い手が呻いた。
「世界が——こいつの歌に従っている。こんなことは——」
「サンポの影響圏でしか、こんな現象は起きないはずだ!」
三人がかりの氷の歌を束ね、対抗しようとした。だが氷を紡ぐ端から、カレの言葉がそれを溶かしていく。上書きの速度が、三人の出力を上回っている。
カレの歌がさらに加速した。
師の残響が胸の中で燃えていた。ロヴィアタルから流れ込んだ「古い歌」の温もりが、カレの言葉に厚みを与えている。師が生涯をかけて守ろうとした世界の記憶——春の大地、豊かな森、歌に満ちた時代の残響。
だが——制御が追いつかなかった。
力が溢れすぎている。春の気配が廃村の外まで広がり、地面に深い亀裂が走った。木々が一気に芽吹いて枝を伸ばし、幹が軋み、家屋の壁に根が食い込む。力が暴走しかけていた。意志とは無関係に、カレの歌が世界を書き換え続けている。
「ロウヒ様に報告する」
霜の歌い手たちが撤退を始めた。
「この力は……危険すぎる」
三人が北へ消えていく。氷嵐が急速に衰え、冷気が引いていく。だがカレの歌は止まらなかった。制御できない。頭では止めなければとわかっている。だが歌が勝手に溢れ出す。感情が、悲しみが、怒りが——全てが言葉になって世界に流れ込み続けている。
「カレ! 止まって!」
アイノの声が聞こえた。
「歌を止めて!」
遠い。声は聞こえるのに、遠い。世界の声がカレの中を満たしていて、他の音が入ってこない。木の声、水の声、大地の声——全てがカレに語りかけ、カレの言葉を待っている。
「カレ!」
アイノのカンテレが鳴った。鋭い一音が、カレの意識を貫いた。
歌が途切れた。
世界が静まり返った。
カレの膝が折れ、前のめりに倒れかけた。アイノが駆け寄り、その体を受け止めた。細い腕が、カレの肩を掴む。
「……勝ったのか」
「勝ったわ。馬鹿」
アイノの声が震えていた。
氷が溶け、偽りの春が廃村に広がっていた。しかしその力は不完全で、カレが守るはずだった場所の一部も壊してしまっていた。
師を失い、力を得た。だがこの力は——まだ、カレのものではなかった。




