師の名を歌う
氷が迫っていた。
結界を失った廃村に、三方から冷気が流れ込む。地面が凍り、空気が白く煙り、家屋の壁に霜が走る。霜の歌い手たちが歌いながら近づいてくる。三つの声が氷を紡ぎ、死を運ぶ。
カレはロヴィアタルの亡骸を抱いたまま動けなかった。
「カレ! 立って!」
アイノが叫んだ。カンテレを構え、防御旋律を張る。だが一人の力では三人分の氷の歌を防ぎきれない。弦の音が悲鳴のように軋んだ。
カレの視界がぼやけていた。涙だ。止まらない。頬が冷たい。涙が凍りかけている。
師の手が冷たかった。さっきまで自分の頬に触れていた手が、もう二度と温かくならない。
悲しみが胸の中で渦を巻いた。底なしの穴が開いて、全てが吸い込まれていくような感覚。
その奥から——怒りが湧いた。
この人を殺したのはロウヒだ。ロウヒがサンポを奪い、世界を飢饉に沈め、廃村を追い詰め、霜の歌い手を送り込んできた。ロヴィアタルは守るために歌った。守るために命を使い果たした。そしてこの歌い手たちは、まだ壊そうとしている。師が命をかけて守ったものを。
この人の歌を消すな。
その言葉は、考えて出てきたものではなかった。胸の奥から勝手に湧き上がった。
カレは師の体を静かに地面に横たえた。立ち上がった。涙は止まっていない。だが目は開いていた。
そして——歌い始めた。
定型歌ではなかった。
ロヴィアタルの古い歌でもなかった。
カレ自身の言葉だった。
「この人は俺の師だ」
声が震えていた。だが言葉は明瞭だった。
「この人が守った場所を壊すな」
空気が変わった。カレの声が発した瞬間から、周囲の大気が震え始めた。微かな揺れ——いや、あの水面の揺れや地鳴りとは次元が違う。空間そのものがカレの言葉に反応している。
「この人の歌を消すな」
地面が脈動した。凍りかけた土が振動し、氷の表面に亀裂が走る。空が震えた。雲が裂け、星の光が差し込んだ。
「——何だ」
霜の歌い手の一人が歌を止めた。
「この歌は……何だ。定型歌でも古い歌でもない——」
「世界が、こいつの言葉に従っている」
別の歌い手が声を失った。三人の歌声が乱れた。
カレの歌が加速した。言葉が次々と溢れ出す。考えて紡いでいるのではない。胸の中にある感情が——悲しみが、怒りが、師への感謝が、この場所への愛が——そのまま言葉になって口から流れ出ている。
「ロヴィアタル」
師の名を呼んだ。
「あんたが教えてくれた歌が、ここにある」
世界が応答した。カレの足元から光が走り、凍った地面を割って草の芽が顔を出した。季節外れの——いや、季節を無視した命の力が、大地から吹き出そうとしている。
「あんたが守り続けたものが、まだここにある」
カレの声に力が満ちていく。涙を流しながら、歌い続ける。これまでの人生で一度も歌えなかった歌が——カレ自身の歌が、初めて世界に響いている。
才能ゼロの少年は今、世界を動かす歌を歌っていた。




