老魔女の若き日の歌
ロヴィアタルが立ち上がった。
杖を手放した。
それだけで、カレは息を飲んだ。師が杖を手放すのを見たことがない。あの杖はロヴィアタルの体の一部のようなもので、歩くにも立つにも常に傍にあった。それを手放したということは——もう、杖に頼る必要がないということだ。全ての力を、歌に注ぎ込むということだ。
「カレ、アイノ、下がりな」
背筋が伸びていた。曲がっていたはずの背が真っ直ぐになり、老婆の体から想像できない威圧感が広場に満ちた。小柄な体が、一回り大きく見えた。
「ばあさん——」
「黙って見てな。これが最後の授業だ」
ロヴィアタルが歌い始めた。
最初の一音で、空気が変わった。
それはカレが聞いたどの歌とも違っていた。定型歌ではない。即興でもない。もっと古い——世界がまだ若かった頃の歌のような、根源的な旋律。ロヴィアタルの掠れた声が紡ぐ言葉は、カレには半分も聞き取れなかった。古い時代の言葉。失われた文法。だがその意味は——歌を通じて、直接胸に響いてきた。
大地よ、覚えているか。雪の下の温もりを。
風よ、覚えているか。花を運んだ春を。
氷よ、お前の季節は長すぎた。還れ、水に。還れ、大地に。
結界が光を帯びた。内側からではなく、ロヴィアタル自身が光を放っていた。老婆の体を中心に暖かい風が渦巻き、氷の嵐を押し返していく。
「——何だ、この歌は」
外から驚愕の声が聞こえた。霜の歌い手の一人が歌声を乱している。
「古いルーノラの歌術師か……! 一人でこれだけの力を——」
押し返していた。三人がかりの氷嵐が、ロヴィアタルの歌一つで後退している。氷が結界から剥がれ落ち、冷気が薄れ、廃村に温もりが戻り始めた。
カレは圧倒されていた。
これがロヴィアタルの全力。若き日に大ルーノラで最優秀と謳われた歌い手の、本来の姿。杖をつき、薬草を煎じ、からからと笑う老婆の内側に、これだけの力が眠っていた。
「ばあさん……こんなに……」
こんなに強い歌を。この人はこれだけの力を持ちながら、廃村で静かに暮らしていたのか。世界が飢饉に沈む中で、この力を隠して——誰にも見せずに。
だがカレの感嘆は、次の瞬間に凍りついた。
ロヴィアタルの口元から、血が一筋流れていた。
歌いながら血を流している。唇の端から顎を伝い、首元に赤い線を引く。それでも歌は止まらない。声が震えもしない。だが命を削っている。確実に。
霜の歌い手たちが一時後退した。だがすぐに態勢を立て直す。三人の歌が再び合わさり、今度はさらに集中的に——ロヴィアタルの歌そのものを押し潰しにかかった。
氷と温もりがぶつかり合う。空気が悲鳴のような音を立てた。ロヴィアタルの歌が揺らいだ。足が震え、膝が折れかけた。
「ばあさん! やめてくれ!」
カレが駆け寄ろうとした。ロヴィアタルは振り返らなかった。
「黙って聴いてな」
血混じりの声で、老婆は言った。
「これがわしの——最後の授業だ」
歌が続く。ロヴィアタルの体が揺れながらも、声は途切れない。老魔女の若き日の歌が、氷嵐と正面からぶつかり合っている。
だが命を削った歌はどこまでも続かない。ロヴィアタルの足が震え、声が掠れ始めた。カレは叫んだが、師は振り返らなかった。
聴け、とロヴィアタルは言った。
だからカレは聴いた。涙を流しながら、師の歌を——最後の授業を。一音も聞き漏らすまいと、全身を耳にして。




