世界を聴け
アイノが結界の状態を確認しに行った。
広場にカレとロヴィアタルだけが残った。遠くで氷の歌声が結界を叩いている。規則的な、容赦のない圧力。結界の表面が時折きしみ、細い亀裂のような光が走る。
ロヴィアタルがカレの隣に座った。杖を膝の間に立て、両手でその頭を握る。老婆の指は節くれ立ち、関節が曲がっている。だがその手が——カレに歌の基礎を叩き込んでくれた手だった。
「お前に最後のことを教える」
また「最後」だ。カレは口を開きかけたが、ロヴィアタルが先に続けた。
「世界を聴け」
カレは瞬いた。
「世界を——」
「お前の耳には世界の声が聞こえるはずだ」
ロヴィアタルの灰色の瞳が、カレを静かに見つめている。
「木も、水も、風も、大地も——全てが歌っている。お前にはそれが聞こえる。聞こえていたはずだ、ずっと。ただ、それが歌だと気づいていなかっただけで」
カレは黙って聴いた。
「その声に言葉を与えろ。世界が何を歌っているか、お前の言葉で形にしろ。それがお前だけの歌だ」
世界を聴け。声に言葉を与えろ。
簡潔な教えだった。だがその言葉の奥にあるものの大きさを、カレはぼんやりと感じ取っていた。ロヴィアタルはこの短い言葉に、自分が生涯をかけて研究してきた全てを詰め込もうとしている。
「……それが、言葉のルーノの本当の使い方ですか」
「使い方じゃないよ」
ロヴィアタルが首を振った。
「お前の在り方だ」
沈黙が落ちた。遠くで結界が軋む音がする。時間がない。だがこの瞬間だけは、静かだった。
ロヴィアタルが手を伸ばし、カレの頬に触れた。皺だらけの掌。温かいが、その温もりが以前より薄い。老婆の命の灯が、ゆっくりと細くなっていることがわかった。
「お前を拾えてよかった」
師が微笑んだ。皺の奥に、潤んだ目があった。
カレの視界がぼやけた。こらえようとしたが、涙が一筋、頬を伝った。
「ばあさん、なんで——なんで最後みたいな言い方するんですか」
声が震えた。情けないと思ったが、止められなかった。
ロヴィアタルがカレの頬から手を離し、からからと笑った。
「年寄りの癖だよ。大げさに聞こえたか。すまないね」
嘘だ。わかっている。だがカレはそれ以上追及できなかった。
足音が近づいてきた。アイノが戻ってくる。
「結界の外に三人。あと半日で到着する」
アイノの報告は短く、正確だった。半日。それだけの猶予しかない。
ロヴィアタルが立ち上がった。今度は杖に体重をかけずに——気力だけで。
「半日か。十分だ」
「十分じゃないでしょう」
アイノが眉を顰めた。ロヴィアタルが笑う。
「年寄りが十分だと言ったら十分なんだよ。口答えするんじゃない」
「いつ弟子になったのよ」
「さっきから」
「勝手に決めないでくれる?」
カレが二人のやり取りを見て、思わず笑った。アイノが「何笑ってるの」と睨む。ロヴィアタルも笑っていた。
三人が並んで空を見上げた。北の空は暗いが、頭上にはまだ青がある。
「いい弟子を持ったもんだ。二人もね」
ロヴィアタルが呟いた。
「弟子って認めてもらえたの——」
「いつから弟子に?」
カレとアイノの声が重なった。二人が顔を見合わせ、ロヴィアタルが声を上げて笑った。からからという乾いた笑い声が、冷たい風の中に響いた。
「お前を拾えてよかった」。師の言葉がカレの胸に深く沈んでいく。半日後、嵐が来る。だが今この瞬間、三人は笑っていた。




