北からの影
結界が軋んだのは、夜明け前だった。
カレは眠りの中でそれを感じた。音ではない。空気の質が変わった。ロヴィアタルの結界が発する、かすかな歌の気配——それが悲鳴のように歪んだのだ。
飛び起きて外に出ると、北の空が暗かった。雲ではない。空そのものが、黒い靄に覆われている。冷たい風が頬を叩いた。前回の霜の歌い手が来た時とは比較にならない——骨の髄まで凍るような、悪意を帯びた冷気。
「北から……複数だ」
ロヴィアタルが杖をついて家の前に立っていた。蒼白な顔に脂汗が浮いている。結界の維持だけでも限界に近いはずだ。その体で、今の圧力に耐えている。
「複数? まさか——」
アイノが走ってきた。カンテレを背負い、外套の前を合わせながら。その顔色が一気に変わった。
「複数の霜の歌い手……。ロウヒが本気を出した」
「本気——」
「私一人を取り返すためじゃない。あの共鳴が報告されたのよ」
カレの背筋が凍った。あの時——霜の歌い手を退けた共鳴。それがロウヒに伝わった。自分たちの力が、北の支配者の注意を引いてしまった。
「つまり俺たちの存在が——」
「ロウヒに脅威と見なされた。ええ、そういうこと」
アイノの声は硬かった。ポヒョラの出身者として、ロウヒの判断がどういう意味を持つか、誰よりもわかっているのだろう。
ロヴィアタルが杖を地面に突いた。乾いた音が朝の冷気に響く。
「ここで迎え撃つしかない」
「ばあさん、体が——」
「逃げたところで追いつかれる。相手は霜の歌い手だ。足の速さじゃ勝てない。結界のある場所で戦うのが最善だよ」
老婆の声は静かだが、揺らぎがなかった。覚悟を決めた人間の声だ。
カレは唇を噛んだ。反論したかったが、ロヴィアタルの言う通りだった。結界の外に出れば、丸腰で霜の歌い手に追われることになる。
「住人を避難させましょう」
アイノが言った。実務的な判断に切り替える速さは、さすがだった。
三人は手分けして廃村の人々を起こした。
年長のセッポが事態を聞いて顔を歪めた。
「わしらも戦う」
「無茶を言うな」
ロヴィアタルが首を振った。
「ルーノなしで歌術師と戦えるか。森の奥の洞穴に行きな。結界が保つ間は、あそこまでは冷気が届かない」
セッポが口ごもる。ロヴィアタルが杖で地面を叩いた。
「言うことを聞きな、頑固じじい。わしより年上のくせに、まだ若者のつもりか」
セッポが苦い顔をして頷いた。
住人たちが身支度を整え、森の奥へ向かっていく。マルヤがカレの前で足を止め、その手を両手で握った。
「帰ってきてね」
小さな手は震えていた。
「……ああ。大丈夫だ」
ヴェイッコが駆けてきて、カレの袖を引っ張った。
「カレ兄ちゃん、負けないで!」
カレは少年の頭に手を置いた。何か気の利いたことを言いたかったが、言葉が出なかった。ただ頷いた。
住人たちの背中が森に消えていく。
広場に残ったのは三人だけだった。
ロヴィアタル、カレ、アイノ。老魔女と、才能ゼロの歌い手と、逃亡者のカンテレ奏者。圧倒的に不利な布陣だった。
北の空がさらに暗くなる。歌声が聞こえ始めた。三つの声が重なり合い、氷の旋律を編み上げている。前回の一人とは質が違う——三人の歌い手が互いを増幅し合い、結界を外側から押し潰そうとしていた。
ロヴィアタルが二人を見た。
「最後に一つ教えることがある」
カレの心臓が跳ねた。最後。その言葉が、嫌な予感とともに胸に刺さった。
北から三つの冷たい歌声が迫る。ロヴィアタルが「最後に教えること」がある——その「最後」が、どういう意味なのか。カレはまだ、気づかないふりをしている。




