師の嘘
その朝、ロヴィアタルは寝台から起き上がれなかった。
カレはいつものように師の家を訪ねた。扉を開けると、薬草の匂いの中に、かすかな汗の臭いが混じっていた。寝台の上で老婆が毛布を被ったまま横たわっている。顔色が蒼白だった。
「ばあさん! どうしたんですか」
カレが駆け寄ると、ロヴィアタルが片手を上げて振った。
「大丈夫、大丈夫。昨夜少し寝つきが悪くてね。年寄りにはよくあることだよ」
笑顔を作ろうとしているのがわかった。皺の深い顔に浮かべた笑みは、いつものからからとした明るさには程遠い。
「横になっていてください。薬草を煎じますから」
カレは棚から乾燥した白樺の葉と野薔薇の実を取り出した。ロヴィアタルに教わった通りの分量を鍋に入れ、火にかける。師の家のかまどは小さいが、カレはもう手慣れたものだった。
「お前も薬草の扱いがうまくなったねえ」
寝台の上からロヴィアタルが茶化す声がした。
「師匠がいい先生なんで」
「調子のいいことを言うようになったもんだ」
ロヴィアタルが笑った。だが笑い声がすぐに咳に変わった。乾いた、長い咳だった。カレは振り返らなかった。振り返れば、師の嘘が——大丈夫だという嘘が、目に見えてしまう。
煎じた薬湯を器に注ぎ、寝台の脇に差し出す。ロヴィアタルの手が震えていた。器を持つ指が、いつもよりずっと頼りない。
「……ばあさん」
「深刻ぶるんじゃないよ。本当にただの寝不足だ」
老婆がカレの目を見て、微笑んだ。その目の奥に、カレが踏み込めない何かがあった。
カレは師の家を出た。
足が自然にアイノの小屋へ向かっていた。
アイノは小屋の前で弦の手入れをしていた。カレの顔を一目見て、手を止めた。
「あの人……ロヴィアタルのこと、あんたは気づいてる?」
単刀直入だった。カレは足を止め、息を吸った。
「……薄々は」
「薄々じゃなくて、結構まずいと思う」
アイノがカンテレを膝に置き、カレを真っ直ぐに見た。紫がかった青い瞳に、普段の刺々しさはない。
「私には音でわかる。あの人の歌の力が、日に日に細くなっている」
「音で……」
「ルーノイヤの力は歌に出る。健康な歌い手の体には、微かだけど歌の気配が流れている。ロヴィアタルのそれが——細い糸みたいに痩せてきている。前はもっと太い幹のようだったのに」
カレの喉が詰まった。薄々とは感じていた。師の咳が増えたこと、杖にかける体重が重くなったこと、修行の時間が短くなったこと。だがそれを認めたくなかった。
「結界の維持が原因だと思う」
アイノが続けた。
「あの人はもう何年も、廃村全体に防護の結界を張り続けている。飢饉でルーノ自体が衰えているこの時代に、あれだけの結界を一人で維持し続けるのは——体を削っているのと同じよ」
カレは拳を握った。知っていた。ロヴィアタルの結界がどれほどの労力を要するか、理論的には理解していた。だが理解と実感は違う。
「伝えるべきか迷った」
アイノが目を逸らした。
「あんたにこういう話をするの、余計なお世話かとも思ったし。でも——」
「いや」
カレが遮った。
「教えてくれて、よかった。……ばあさんに訊いても、大丈夫としか言わないから」
二人の間に重い沈黙が落ちた。
風が吹いて、アイノの白銀の髪を揺らした。彼女の指がカンテレの弦を無意識に撫でている。こういうとき、アイノは自分の不安を音で押さえ込もうとする。カレにはそれがわかるようになっていた。
「……あの人に、どうにかする方法はないの」
アイノが小さく訊いた。
「結界を弱めれば負荷は減る。でもそうすると——」
「ポヒョラに見つかる。ええ、そうよね」
答えの出ない問いだった。
ロヴィアタルは「大丈夫」と笑う。だがアイノの耳には、師の歌が細くなっていくのが聞こえている。そしてカレの心には、初めて——師を失うかもしれないという恐怖が、明確な形を持って芽生えていた。




