もう逃げない
アイノが広場に出てきた。
カンテレを両手で握りしめている。指先が震えている。だが足は止まらなかった。一歩、また一歩と、カレの隣まで歩いてくる。
「危ない、下がっていろ!」
カレが叫んだ。結界の向こうでは霜の歌い手の旋律が続いている。冷気が結界の亀裂から噴き出し、広場の石畳に氷の膜が広がっていく。
アイノはカレの言葉を無視した。
広場の中央に立ち、結界の向こうを見つめている。白い外套の霜の歌い手。かつてポヒョラで何度も見た姿。ロウヒの右腕。あの歌は——知っている。骨の髄まで染み込んだ旋律だ。
「あんた、ボロボロじゃない」
アイノがカレを横目で見た。カレの唇は紫がかり、指先は凍傷寸前で赤くなっている。何度も上書きを試みた消耗が、体にはっきりと出ていた。
「大丈夫だ」
「嘘つき。顔色が死人みたいよ」
棘のある言い方だが、そこに初めて——心配の色が混じっていた。カレはそれに気づいたが、気づかないふりをした。今はそんな場合ではない。
アイノがカレを見ている。ボロボロになりながら、それでも廃村を守ろうとしている。才能ゼロと言われた素人が。歌が通じないとわかっていても、前に立ち続けている。
なぜだ。
なんで私のために。いや——私のためじゃない。この場所のために。この人たちのために。食事を運んでくれたマルヤのために。カンテレを「それ何?」と目を輝かせて訊いてきたヴェイッコのために。
自分が逃げようとした場所を、この素人は——命を懸けて守ろうとしている。
アイノの胸の中で、何かがはじけた。
ポヒョラから逃げた。追手から逃げた。自分の過去から逃げた。ずっと逃げ続けてきた。逃げることだけが生き延びる方法だと信じてきた。
でも——もう逃げない。
「もう逃げない」
声が出た。自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
カンテレを構える。革のケースから取り出し、膝の高さに抱える。五本の弦に指を添えた。手の震えが——止まっていた。
「あんたの歌だけじゃ勝てないんでしょ」
「……ああ」
「なら——」
アイノが弦に触れた。微かな和音が鳴る。冷えた空気の中に、温もりのある響きがわずかに広がった。
ロヴィアタルが二人を見た。
老魔女の目が、大きく見開かれた。何かに気づいたように。確信するように。枯れた唇が動き、言葉がこぼれた。
「二人で歌え」
カレが振り返った。ロヴィアタルは杖にすがり、結界の維持で全身を震わせながら、それでも二人を見つめていた。灰色の瞳に、確かな光がある。
「言葉と音を合わせろ」
「合わせるって——どうすれば」
カレが戸惑う。アイノの音のルーノは言葉を使わない。カレの言葉のルーノは旋律が単純だ。水と油のように相容れないものを、どうやって合わせるというのか。
「いきなり無茶を言わないで」
アイノも困惑している。だがその目は——やる気だった。
「考えるな」
ロヴィアタルが声を絞り出した。結界が大きく軋み、老魔女が膝をつきかける。それでも声は途切れなかった。
「ただ歌え。お前たちの歌を」
結界が最後の力を振り絞る。ロヴィアタルの古い歌が結界を補強し、わずかな時間を稼ぐ。一分か。二分か。それだけだ。
カレとアイノが向かい合った。
カレが深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺す。
アイノがカンテレの弦に指を置いた。
同時に——二つの歌が始まった。
だがそれは共鳴ではなく、不協和音だった。




