凍る森
霜の歌い手が歌い始めた。
本格的な攻撃だった。
最初の一節で、廃村を囲む森の外周が凍りついた。木々が白く染まっていく速度は、季節が変わるのとは訳が違う。一瞬だ。葉が凍り、幹が霜に覆われ、枝が重みに耐えかねて砕ける音が森中に連鎖した。ぱきん、ぱきん、ぱきん——乾いた音が立て続けに鳴り、白い破片が雪のように舞い落ちる。
北方の古い歌。パッカネンの旋律。
カレは結界の内側に立ち、その光景を見ていた。
凍結が結界の境界線まで迫り、そこでロヴィアタルの防護のルーノとぶつかった。氷の力が結界を削る。昨日から感じていた「削られる」感覚が、今は目に見える形で進行している。結界の表面に微細な亀裂が走り、そこから冷気が糸のように侵入してくる。
「この歌は……」
ロヴィアタルが結界を維持しながら歯を食いしばった。
「北方のパッカネンの歌だ。かつてポヒョラの地を凍てつかせた原初の冬の旋律。こいつは定型歌じゃない——歌そのものが生きている」
カレは前に出た。
上書きが効かないと言われた。だが試さなければわからない。
「氷よ、お前は——」
言葉を紡ごうとした。氷の真の名を呼ぼうとした。だが——掴めない。
定型歌の氷には「固定された言葉」があった。「凍れ」という命令が氷の形を規定していたから、カレはその言葉を書き換えられた。だがこの氷は違う。霜の歌い手の古い歌は自由で流動的だ。氷を生んでいるのは固定された言葉ではなく、流れ続ける旋律そのもの。旋律が止まらない限り、氷は生まれ続ける。
カレの言葉が氷の一部を掴んでも、旋律がすぐに新しい氷を生む。水面に指で文字を書くようなものだ。書いた端から流れに消されていく。
「通じない……」
カレが歯を食いしばった。何度試みても同じだ。上書きの起点が見つからない。自由な歌同士では、言葉で相手の歌を固定できない。
「やはりね」
ロヴィアタルが苦い顔をした。
「相手も自由な歌だからだ。固定点がない歌は上書きできない。お前の言葉が届いても、すぐに旋律が塗り替えてしまう」
結界がさらに削られた。亀裂が広がり、冷気の侵入が激しくなる。廃村の地面に霜が張り始めた。ロヴィアタルの額に汗が浮いている——結界の維持に全力を注いでいる証だ。
住人たちは家の中に避難していた。だが家の壁にも霜が這い、窓の隙間から冷気が入り込んでくる。
ヴェイッコの泣き声が聞こえた。
「寒い、寒い」
マルヤがヴェイッコを抱きしめ、毛布で包んでいる。だがマルヤ自身の息も白い。セッポが薪を囲炉裏に叩き込んでいるが、炎が不自然に弱まっている。霜の歌い手の旋律が、火の力そのものを奪っているのだ。
カレは拳を握りしめた。
守りたい人たちがいる。ヴェイッコが泣いている。マルヤが震えている。ロヴィアタルが命を削って結界を維持している。なのに自分にできることがない。
言葉のルーノが通じない。初めてだ。歌術師団との戦いでは、追い詰められながらも答えを見つけた。大地を揺らし、敵を退けた。だが今回は——答えが見つからない。
「カレ」
ロヴィアタルの声が掠れていた。
「無理に前に出るな。今のお前一人では、あれは止められない」
「でも——」
「焦るな。考えろ。上書きが通じないなら、別の方法がある」
「別の方法って——」
ロヴィアタルの言葉は途切れた。結界に大きな亀裂が走り、老魔女が歯を食いしばって修復に集中する。会話を続ける余裕がない。
カレは結界の内側に立ち尽くした。冷気が足元から這い上がってくる。指先が凍え、息が白い霧になって消える。思考が鈍り始めている。
このままでは——みんな、凍えてしまう。
その時、背後で音が鳴った。
微かな、だが確かな音。
弦の音だ。
カンテレの弦が、一本だけ弾かれた。
カレが振り返ると——廃村の奥の小屋から、アイノが顔を出していた。カンテレを胸に抱えている。その目に、怯えと——決意の萌芽が見える。
言葉のルーノが通じない。結界は崩れかけ、廃村が凍りつき始めている。カレにできることはない——そう思った時、背後でカンテレの弦が鳴った。




