夜のカンテレ
夜中に目が覚めた。
何が自分を起こしたのか、最初はわからなかった。外は静かだ。虫の音も止み、廃村を包む夜の闘は深い。だがカレの耳が、微かな音を拾っていた。
旋律だ。
遠く、かすかに——誰かが楽器を弾いている。
カレは毛布をはねのけ、外套を羽織って外に出た。秋の夜気が頬を刺す。月が高い位置にあり、廃村を青白く照らしている。
音の出どころを辿った。広場を抜け、廃村の外れへ。壊れた柵の向こう、森との境界にある古い切り株のあたりから、旋律が流れてくる。
近づくにつれ、音が鮮明になった。
カンテレだ。五弦の音。繊細で、透き通っていて、夜の冷たい空気の中をまっすぐに伝わってくる。
カレは足を止めた。
月明かりの下に、あの女がいた。
切り株に腰かけ、膝の上にカンテレを載せている。白銀の髪が月光を受けて淡く光っている。日中の刺々しさがまるで嘘のように、その横顔は穏やかだった。いや——穏やかという言葉では足りない。演奏に没入した彼女の表情は、鎧を全て脱ぎ捨てた素の姿だった。
カレは木の陰に身を隠し、息を殺した。
そして——聴いた。
旋律が空気を変えていた。
最初に気づいたのは風だった。先ほどまで頬を刺していた冷たい夜風が、穏やかに凪いでいる。カンテレの音が広がるたびに、風が静まり、空気が柔らかくなっていく。
次に気づいたのは木々だった。森の端の白樺が、音に合わせて微かに枝を揺らしている。風はないのに。音が木々に届き、木々がそれに応えているのだ。まるで旋律と対話しているかのように、葉が一枚ずつ、静かに震える。
カレの呼吸が止まった。
言葉を使っていない。
定型歌でもない。
純粋な音だけで——世界を動かしている。
歌学院で教わるルーノは、言葉と旋律の組み合わせだ。正確な言葉で対象を呼び、正確な旋律で力を送る。カレ自身の「言葉のルーノ」も、言葉に重きを置いているとはいえ、声という形で言葉を発する。
だがこの女の歌には言葉がない。カンテレの弦が震え、音が空気を渡り、世界がそれに応答する。言葉を介さず、音そのものが魔法として機能している。
音のルーノ。
こんなものが存在するのか。
カレは呆然と聴き入った。旋律は悲しみに満ちていた。故郷を離れた者の孤独。追われる者の恐怖。だが同時に、どこか温かい。音の底に、何かを慈しむような響きが潜んでいる。あの刺々しい女の中に、こんな音が眠っているのか。
感情がそのまま音になっている。言葉にできない何かが、旋律という形で世界に零れ出ている。
一曲が終わった。
余韻が夜の空気に溶けていく。木々の揺れが止まり、風が元の冷たさを取り戻す。魔法が解けるように、世界が日常に戻っていく。
女が指を弦から離した。
そして——こちらを向いた。
「……聴いてたの」
声が凍った。
月明かりの中で、紫がかった青い瞳が刃のように光っている。柔らかな演奏者の顔が一瞬で消え、警戒心の鎧が戻っていた。
カレは木の陰から出た。隠れていても仕方がない。
「ごめん、たまたま目が覚めて、音が聴こえたから——」
「たまたま盗み聴き? 趣味が悪いわね」
アイノ——いや、まだ名前は知らない。女がカンテレを抱えて立ち上がった。革のケースに楽器をしまう手つきは荒い。怒っている。
「待ってくれ、悪気は——」
「二度と聴かないで」
女が背を向けて歩き出した。白銀の髪が月光の中で揺れ、やがて廃村の闇に消えていく。
カレは一人残された。
切り株の前に立ち尽くし、月を見上げた。頭の中では、あの旋律がまだ鳴り続けている。消えない。耳に焼きついて離れない。
言葉のルーノと、音のルーノ。カレの歌と、あの女の旋律。まったく違う形。だが同じ「ルーノ」だ。
世界にはまだ、カレの知らない歌の形があった。




