素人に構うな
翌朝、カレは麦粥と焼いたパンの切れ端を盆に載せて、女が寝ている部屋の前に立った。
扉を叩く。返事はない。もう一度叩く。
「……入れば」
不機嫌な声が返ってきた。少なくとも起きている。
部屋に入ると、女はベッドの上に座っていた。カンテレを膝に載せ、壁にもたれている。昨夜より少しだけ顔色がいい。ロヴィアタルの薬草のルーノが効いているのだろう。
「朝飯を持ってきた」
「……そこに置いて」
カレが盆をテーブルに置いた。女は動かない。カレがいる限り食べるつもりがないのだ。
「あの、何か他に要るものは——」
「用がないなら出て行って」
冷たい声だった。視線もくれない。カレは口を閉じた。一瞬、何か言い返そうとしたが、やめた。言い返してどうなるものでもない。
「わかった。何かあったら声かけてくれ」
部屋を出ようとした時、背後から声がした。
「あんた、歌術師なの」
振り返ると、女がカレを見ていた。紫がかった青い瞳に、冷たい品定めの光がある。
「いや、才能ゼロで……でも今は修行を——」
「才能ゼロ?」
女の眉がぴくりと上がった。
「素人ってこと?」
「まあ、そうなるかもしれないけど——」
「素人に構われたくないんだけど」
言葉が刃のように飛んできた。才能ゼロ。素人。その言葉は村で散々浴びせられたものと同じだ。胸の奥がずきりと痛んだ。
だがカレは反論しなかった。
黙って部屋を出た。扉を閉め、廊下に立ち、深く息を吐いた。
手が少し震えていた。
ロヴィアタルの指導を受けるため、広場に出た。
枯れた花壇の前に立ち、言葉のルーノの練習を始める。三日前の戦闘以来、カレの歌は少しだけ精度が上がっていた。枯れた草に「お前は緑だ」と語りかけると、葉先がわずかに色を取り戻す。まだ完全には制御できない。
だが今日は集中できなかった。あの女の言葉が頭の中で繰り返される。素人に構われたくないんだけど。
「浮かない顔だね」
ロヴィアタルが杖をつきながら歩いてきた。戦闘の疲労はまだ抜けていない。だがこの老婆は自分の体調をまるで気にしない。
「あの人、なんであんなに攻撃的なんですか」
つい口をついて出た。ぼやきだとわかっていたが、飲み込めなかった。
ロヴィアタルが「ほう」と小さく笑い、カレの隣に腰を下ろした。杖を膝に渡し、空を見上げる。
「あの子は怯えているだけだよ」
「怯えている? あんなに攻撃的なのに?」
「攻撃は最大の防御、って言うだろう。あの子の棘は鎧だ。中身は傷だらけさ」
ロヴィアタルの声は穏やかだった。皺の奥の灰色の瞳が、遠くを見ている。
「ポヒョラから一人で逃げてきたんだよ。北の闇の国から、たった一人でね。どれほどの恐怖だったか、想像してみな。追手がいつ来るかわからない。誰を信じていいかわからない。食べるものもない。それでもあの子は逃げ続けた」
カレは黙った。想像してみた。一人で、追われながら、凍てつく北の国から逃げ続ける。カレも追放された身だ。村を追われた朝のことは忘れない。見送りのない背中。振り返っても誰もいなかった。
だがカレの追放は、少なくとも命の危険はなかった。ポヒョラからの逃亡は——そうはいかない。
「それにね」
ロヴィアタルが続けた。
「あの子はカンテレを手放さなかった。ボロボロの体で、食べ物より楽器を守った。あの子にとって音楽は、お前にとっての歌と同じなんだよ」
カレの胸の中で、何かが静かに動いた。
才能ゼロと言われた自分。歌うことだけはやめられなかった自分。どれだけ嗤われても、どれだけ否定されても、歌だけは手放せなかった。
あの女もそうなのか。衰弱して倒れるほど追い詰められても、カンテレだけは抱きしめていた。
「……そうか」
「深刻ぶるんじゃないよ」
ロヴィアタルが、からからと笑った。
「あの子は強い子だ。時間が要るだけさ。お前は黙って飯を運んでやればいい」
「はい」
「さ、修行の続きだ。ぼやいてる暇があったら歌いな」
夕方、カレは再び食事を部屋に運んだ。
扉を叩く。返事はない。盆をそっと扉の前に置き、立ち去ろうとした。
背後で、扉がわずかに開く音がした。
振り返らなかった。振り返ったら、あの冷たい目で睨まれるだけだ。
だがロヴィアタルの言葉が耳に残っている。あの子は怯えているだけだ。なら——怯えが解けるまで、待てばいい。
カレにはそれができる。待つことだけは、得意だった。




