あの日の共鳴
修行後の夜は、ロヴィアタルと囲炉裏を囲む時間が好きだった。
老婆は薬草の煎じ薬を飲みながら、時折ぽつりと昔話をしてくれる。歌学院にいた頃のこと、旅をした頃のこと。断片的だが、カレにとっては宝石のような話だった。十九年間、誰にも興味を持たれなかったカレにとって、ロヴィアタルが語る歌の世界の話は、それ自体が一つの歌のようだった。
だがこの夜の話は、いつもとは違った。
「若い頃の話をしようか」
ロヴィアタルが切り出した。囲炉裏の火が揺れ、老婆の顔に深い影を落とす。薬草の苦い匂いが部屋に満ちている。
「わしが大ルーノラで一番の歌い手と言われた時期がある。生意気な小娘だったよ。誰にでも噛みついて、先輩の歌を聴いては『あの旋律は甘い』だの『あの言葉は怠けている』だの言い散らしていた。自分の歌が一番だと思い込んでいたんだ」
「ばあさんが一番?」
「信じられないかい。まあ、今この皺だらけの顔を見てそう思うのも無理はないね」
からからと笑う。だがその笑い声が、途中で止まった。笑みが消え、遠い場所を見る目になった。囲炉裏の火が映る瞳が、数十年前のどこか遠い景色を見ている。
「一度だけ、サンポの影響圏に近づいたことがあった」
カレは背筋を伸ばした。サンポ。あの魔法の臼。ロヴィアタルの口からサンポの話が出るのは、あの夜の講義以来だった。
「大ルーノラの調査隊に加わったんだ。若い歌い手が十二人、引率の長老が三人。ポヒョラの南端——境の森の入口付近まで行った。サンポがまだ正しく機能していた頃の、最後の時代だ。あの頃は境の森も今ほど恐ろしい場所じゃなかった。寒いだけで、魔物は少なかった」
ロヴィアタルが器を置き、両手を膝の上で組んだ。節くれ立った指が、微かに震えている。
「近づくにつれて、歌が変わり始めた」
「歌が変わる?」
「定型歌が——崩れるんだ」
ロヴィアタルの声が低くなった。
「わしが火の定型歌を歌おうとしたら、言葉が勝手に変わった。いつも通りの歌詞を口にしているのに、喉から出る言葉が違う。まるで定型歌の言葉を押しのけて、別のもっと根源的な言葉が口から溢れ出そうとするように」
カレの心臓が跳ねた。それは——自分がずっと経験してきたことと同じではないか。定型歌を歌おうとすると、言葉が勝手に変わる。正しい歌詞を覚えているのに、口から出る言葉が違う。
「定型歌が崩れて、代わりに何が起きたんですか」
「世界が本来の声で歌おうとしているようだった」
ロヴィアタルの声がさらに低く、静かになった。囲炉裏の火がぱちんと爆ぜ、火の粉が天井に向かって舞い上がった。
「サンポの影響圏では、定型歌という『ひな型』が通用しなくなる。世界のルーノそのものが強すぎて、ひな型を突き破ってしまうんだ。あの場所では、世界が自分自身の声で歌っていた。わしたちの定型歌なんか、世界の歌に比べれば子供の落書きのようなものだった」
老婆が一度言葉を切った。
「わしは恐ろしかった。自分の歌が自分のものでなくなる感覚は——歌い手にとって、これ以上ない恐怖だよ。口が勝手に動く。声が勝手に出る。自分の意志を離れて、世界の歌が体を通り抜けていく」
カレは黙って聞いていた。ロヴィアタルが語っているのは、遠い過去の話だ。だがカレの中で、何かが繋がりかけていた。パチン、パチンと、パズルの欠片がはまるように。
「結局、調査隊はそれ以上進めなかった。サンポの影響圏で歌い手は歌を制御できなくなる。危険すぎた。あれ以来、誰もサンポに近づけていない」
「ばあさん。その——サンポの影響圏で起きたことと、俺の歌は、何か関係があるんですか」
ロヴィアタルが顔を上げた。灰色の瞳がカレをまっすぐに見つめる。長い沈黙が流れた。囲炉裏の火が揺れ、影が壁の上で踊った。
「今のお前に答えられることじゃない」
老婆はそう言って、煎じ薬を最後の一口飲み干した。
「だがいつか——わかる時が来るだろう。その時が来れば分かるよ」
いつもの口癖だった。カレはそれ以上問わなかった。問うても答えは返ってこないだろうし、ロヴィアタルが隠すときは必ず理由がある。
寝台に横になっても、眠れなかった。
ロヴィアタルの話が頭の中で渦を巻いている。サンポの影響圏で定型歌が崩れた。世界のルーノが強すぎて、ひな型を突き破った。定型歌の言葉を押しのけて、根源的な言葉が溢れ出そうとした。
それは——カレの歌にそっくりだった。カレが定型歌を歌えなかったのは、言葉が勝手に変わってしまうからだ。真の名が見えてしまうから、定型歌の言葉が不正確に感じられて、無意識に言い換えてしまう。
サンポの影響圏で起きたことと、カレの歌で起きていること。両方とも「定型歌が崩れて、もっと根源的な歌に変わる」現象だ。
まさか。
カレは寝台の下から、古い布切れを取り出した。母の遺品だった。追放の日に持ち出した唯一のもの。薄汚れた麻の端切れに、消えかけた文字で歌詞が刺繍されている。幼い頃、母が子守歌として歌ってくれた古い歌。定型歌ではない、もっと素朴な旋律。
その歌詞をそっと口ずさんだ。
部屋の空気が、微かに揺れた。蝋燭の炎が一瞬傾き、壁に掛けた薬草の束がかさりと音を立てた。風もないのに。
偶然だろうか。それとも——。
「俺の歌は、何と繋がっているんだろう」
答えは出ないまま、カレは目を閉じた。母の歌の残響が、夜の闇に溶けていく。
母の歌を口ずさんだ時、壁の向こうから気配がした。
ロヴィアタルが起きている。壁越しに、老婆の呼吸が変わったのがわかった。カレの歌に反応したように、息を詰めた気配。
そして——微かな声が聞こえた。壁を通して、かろうじて聞き取れる呟き。
「あの時と同じ匂いがする……」
カレは息を止めた。聞こえた言葉は、それだけだった。あの時とは何のことだろう。何の匂いだ。サンポの影響圏の話と、何か関係があるのだろうか。
問いただしたい衝動を抑えた。今この暗がりで壁越しに問い詰めても、ロヴィアタルは答えないだろう。「いつかわかる」と言って、話を打ち切るに決まっている。
だがカレの中で、確信に似たものが育ち始めていた。自分の歌とサンポの間には、何かがある。ロヴィアタルはそれを知っている。知っていて、まだ教えない理由がある。
壁の向こうで、老婆が寝返りを打つ音がした。小さな咳。ここ数日、ロヴィアタルの咳が増えている。結界の維持が体に負担をかけているのだろうか。
答えは出ないまま、カレは目を閉じた。眠りが来るまで、母の歌の残響が暗闇の中に漂っていた。




