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歌えない魔法使いは追放された ~才能ゼロの烙印を押された歌は、世界を創り変える禁呪だと誰も知らない~  作者: 蒼月よる


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上書き

 翌朝から、修行の空気が変わった。

「今日から方向を変える」

 ロヴィアタルは森の修行場に着くなり、地面に小さな焚き火を起こした。乾いた枝を組み、火打ち石で火種を作る。老婆の手つきは手慣れたもので、すぐに橙色の炎が立ち上った。

 それから、ロヴィアタルは歌った。

 火起こしの定型歌。カレが歌学院で何度も聞かされた、あの決まりきった歌詞と旋律。ロヴィアタルの声は老いて掠れていたが、定型歌の精度は高かった。さすがにかつて大ルーノラで一番と言われた歌い手だ。焚き火の炎が定型歌に応じて一回り大きくなり、安定した燃焼を始める。

「これを止めてみろ」

「止める?」

 カレは面食らった。

「どうやって。俺は定型歌を歌えませんし、対抗する手段なんて——」

「定型歌は要らない」

 ロヴィアタルが人差し指を立てた。囲炉裏の前で講義をするかつての教官の面影が、老婆の中に一瞬だけ蘇った。

「いいかい。定型歌は言葉が固定されている。『燃えろ』と言えば燃える。『吹け』と言えば吹く。決まった言葉に、決まった効果。それが定型歌の強みであり——弱点だ」

「弱点?」

「言葉が固定されているからこそ、お前の言葉で上書きできる」

 カレは息を呑んだ。

「定型歌が火に『燃えろ』と命じているなら、お前は火の真の名を呼んで、別の在り方を教えてやればいい。定型歌の言葉は一方的な命令だ。だがお前の言葉は、対象との対話だ。命令と対話——どちらが火の心に深く届くか、わかるだろう」

 理屈は理解できた。定型歌は固定された命令。カレの言葉は対象との対話。命令よりも対話のほうが深く届く——それは、修行の中で何度も実感してきたことだ。樹の名前を言い当てたとき、火の本質に触れたとき、水の渇きを癒す力を呼び覚ましたとき。

 だが実際に、他者の定型歌を「書き換える」ことができるのか。

「やってみます」

 カレは焚き火の前にしゃがんだ。定型歌で維持されている炎。その炎に向かって、意識を集中する。火の真の名を探る。修行で掴んだ感覚を思い出す。

 火の本質は——温もり。

 だが今、この火は定型歌に縛られている。「燃えろ」という命令に従って燃えている。その命令を、カレの言葉で上書きする。

「お前は灰だ。もう燃える必要はない」

 炎が揺らいだ。一瞬だけ勢いが弱まり、火の先端が萎えるように小さくなった。

 だがすぐに押し戻された。定型歌の力が炎を支え、元の大きさに復帰する。カレの言葉は一瞬だけ効いたが、定型歌の継続的な力には敵わなかった。

「惜しい」

 ロヴィアタルが言った。

「お前の言葉は火に届いた。だが定型歌の力を上回れなかった。言葉の精度を上げろ。もっと火の本質に近い言葉を選べ」

 カレは何度も試みた。

「お前は静寂だ」——炎が一瞬揺れるが、すぐに戻る。火の本質ではない。

「お前は灯火だ。荒ぶる必要はない」——少し長く効いたが、やはり押し返される。方向は合っているが、言葉が浅い。

「お前はもう燃え尽きた」——まるで効かない。嘘の言葉は火に通じない。

「言葉が頭で作られている」

 ロヴィアタルが指摘した。

「頭で考えた言葉は弱い。知識で組み立てた言葉は、結局のところ命令と変わらない。火を感じろ。火が何を望んでいるか、聴いてから言葉にしろ」

 カレは一度息を整えた。目を閉じ、火の声を聴く。定型歌に縛られた炎の奥に、火そのものの声がある。

 定型歌は「燃えろ」と命じ続けている。だが火自身は——燃えたいのか?

 聴こえた。

 火は、疲れていた。定型歌に「燃えろ」と命じられ続け、炎は義務感だけで燃えている。その奥にある本当の火は、もう少し穏やかでいたがっている。激しく燃え盛ることに、火自身が飽き飽きしている。

「お前はもう、怒らなくていい」

 カレが静かに言った。頭で考えた言葉ではない。火の声を聴いて、そのまま返した言葉だ。

 炎がふっと小さくなった。定型歌の力が拮抗する。「燃えろ」と「怒らなくていい」がせめぎ合う。だがカレの言葉は火の心に寄り添っていて、命令よりも深いところに届いた。

 炎が——消えた。

 焚き火の薪から煙が立ち上り、残り火が赤く光っている。定型歌で維持されていた炎が、カレの言葉によって穏やかに鎮まった。

「……消えた」

「上書き成功だ」

 ロヴィアタルが小さく手を叩いた。だがすぐに厳しい顔に戻る。

「ただし今のは、わしが手加減した定型歌だ。実戦ではこうはいかない。本気の歌術師の定型歌は、わしの手加減とは比べものにならない強度がある。もっと練習が要る」

 それからの修行は過酷だった。火を止め、風を逸らし、水を曲げる。ロヴィアタルが次々と異なる定型歌を発動し、カレがそれを言葉で上書きする。成功率は低い。十回に一回。二十回に一回。しかし失敗のたびに、カレは何が足りなかったかを分析した。言葉の精度が足りないのか、火の声をきちんと聴けていないのか、それとも定型歌の力を過小評価しているのか。

 日が傾く頃、最後の一回。

 ロヴィアタルが風のルーノを放った。冷たい突風がカレに向かって吹きつける。外套の裾がめくれ上がり、髪が顔に張りつく。

「風よ」

 カレが歌った。声に力を込める。風の真の名を探り、その本質に触れる。風は怒りではない。風は切り裂く刃ではない。風の本質は——

「お前は怒りではない。お前は旅人の背を押す追い風だ」

 突風が——向きを変えた。カレに襲いかかろうとしていた風が、ふわりと柔らかくなり、背中を押すような穏やかな風に変わる。カレの髪を撫でて、森の奥へと吹き抜けていった。

 初めての完全な上書き成功だった。

「からから」とロヴィアタルが笑った。

「定型歌を言葉で書き換える。それがお前の戦い方だ。覚えておきな」

 帰り道、カレは自分の手を握り締めた。定型歌を上書きする力。それが自分の武器になる。

 だがこの技が必要になる日が、こんなに早く来るとは——まだ知らなかった。


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