大丈夫、と師は笑う
修行は日を追うごとに深まっていった。
樹、草、石、火。カレはさまざまなものの真の名に触れ、少しずつ応答の精度を上げていた。成功率は五割を超え、感覚を掴むまでの時間も短くなっている。だがロヴィアタルは褒めなかった。「まだ足りない」「もっと深くに聴け」「表面を撫でているだけだ」——厳しい言葉の連続だった。
そしてこの日、ロヴィアタルはカレを小川のほとりに連れてきた。
「水だ」
老婆が杖で清流を指す。苔むした岩の間を、澄んだ水が流れている。日の光が水底の小石をきらきらと照らし、小さな魚が影を横切った。
「火と同じくらい気難しいが、性質が違う。火は激しく移ろうが、水は静かに深い。お前の言葉が水の底まで届くか——試してみな」
カレは小川の縁に膝をついた。冷たい水に手を差し入れる。指先から甲へ、手首へ、冷たさが上がっていく。修行の日々で手は荒れていた。ひび割れた指先に、水の冷たさが染みる。
目を閉じ、意識を水に沈める。
水の声は、火とはまるで違った。火が激情なら、水は瞑想に近い。深く、静かで、底が見えない。表面は穏やかに流れているのに、その奥に広大な沈黙が広がっている。カレは焦らず、ゆっくりと水の本質を探った。
「お前は何だ」
心の中で問いかける。水が答えようとしている。流れること。潤すこと。満たすこと。だがそのどれも、表面的にすぎる気がした。火の「温もり」を見つけたときのように、もっと奥にある本質——水が水である理由。
流れる。それは水の形態であって、本質ではない。潤す。それは水の機能であって、名前ではない。もっと根源的な——水が存在する意味。
畑で枯れかけた麦のことを思い出した。あの時、カレの力は足りなかった。世界のルーノが弱っているからだとロヴィアタルは言った。大地が渇いている。人々が渇いている。世界が——渇いている。
水は、その渇きに応えるためにあるのではないか。
「お前は」
カレが声に出した。言葉が胸の奥から湧き上がる。
「お前は、渇きを癒すものだ」
地面が震えた。
小川の隣——乾いた岩の亀裂から、ちょろちょろと清水が湧き出した。細い糸のような水の流れが、苔むした岩肌を伝って小さな水溜まりを作る。透明な水が地中から押し出されるように、ゆっくりと、だが確実に湧いている。
泉だった。小さな、掌ほどの泉。
「やった——」
カレは声を上げた。水を両手で掬う。冷たくて、澄んでいて、飲めば甘い。畑に水を引くことはできなくても、新しい水源を作ることはできた。これで廃村の水の心配は少し楽になる。
「ばあさん! 見てください、泉が——」
振り返った。
ロヴィアタルが、木に手をついていた。
老婆の背が丸まり、肩が上下に揺れている。呼吸が荒い。杖を手放し、片手で木の幹にすがりつくように体を支えていた。頭巾が少しずれて、白い髪が額に張りついている。
「ばあさん?」
カレが駆け寄った。ロヴィアタルの顔色が悪い。唇の血色が薄く、額に汗が滲んでいた。肌が蝋のように白い。昨日までもこんなだっただろうか。いや——ここ数日、老婆の顔色が徐々に悪くなっていたことに、今さら気づいた。
「大丈夫、大丈夫」
老婆が手を振った。力なく、ぱたぱたと。
「歳のせいさ。朝から歩きすぎた」
「でも——」
「大丈夫だと言っただろう。心配するなら、修行で結果を出せ」
からからと笑って見せた。いつものロヴィアタルの笑い方。だがその笑い声が、いつもより掠れていることにカレは気づいた。乾いた笑い声の中に、微かな疲労が混じっている。
「……わかりました。無理しないでください」
「年寄りに説教するんじゃないよ」
老婆が杖を拾い上げ、何事もなかったように歩き始めた。カレはその背中を見つめた。小さな違和感が、胸の隅に引っかかったまま消えない。でもロヴィアタルが「大丈夫」と言うなら、そうなのだろう。この人は嘘をつかない——と、カレは思いたかった。
夜が来た。
カレは寝台に横になった。目を閉じると、水の真の名を見つけた時の感覚が蘇る。渇きを癒すもの。あの言葉が胸の中で静かに響いている。小さな泉。掌ほどの泉。それでも——自分の力で世界に何かを生み出せた。
眠りに落ちる直前、廃村の外から微かな歌声が聞こえた気がした。風に溶けるほど細い、か細い声。ロヴィアタルの声だろうか。だが疲労に引きずられるように意識が沈み、確かめる前に眠ってしまった。
翌朝、カレが起き出すと、異変に気づいた。
ロヴィアタルがまだ眠っている。いつもなら夜明け前に起きて薬草園の手入れをしているのに、囲炉裏の前で毛布にくるまったまま動かない。顔色が蝋のように白い。呼吸は浅く、額に汗の跡が残っていた。
杖が玄関の外に倒れていた。いつもなら手元に置いて眠る杖が、外に。昨夜、外で何かをしていた証だった。
結界の色が変わっている気がした。廃村を包む空気の質が、昨日までと微かに違う。説明できないが、薄くなったような——透けてきたような感覚があった。
ロヴィアタルが目を開けた。カレの視線に気づいたのだろう。
「……何を見ているんだい」
「ばあさん、顔色が悪い。大丈夫ですか」
「歳を取ると朝が辛いんだよ。お前もいずれわかる」
からからと笑ったが、起き上がるのに杖が必要だった。いつもなら杖なしで立てるのに。
カレは何も言わなかった。だが胸の奥に、小さな不安が芽生えていた。ロヴィアタルの体が、日に日に痩せていっている気がする。それが結界の維持と関係があるのではないか——そんな疑いが、まだ形にならないまま胸の隅に引っかかっていた。




