温もり
焚き火の炎がゆらゆらと揺れている。
カレは火の前に座り、両手を膝の上に置いて、炎を見つめていた。修行はすでに二十日目に入っていた。樹の名前を言い当ててからも、毎日が試行錯誤の連続だった。草の真の名、石の真の名、風の真の名——時に成功し、時に何の反応も得られず、時に意図しない暴発を起こして地面に叩きつけられた。背中にはまだ三日前の暴発の痣が残っている。
「火は難しい」
ロヴィアタルが焚き火の向こう側に座っている。杖を膝に預け、片目を細めてカレを観察している。
「動きが速く、性質が移ろいやすい。樹のように辛抱強く待ってはくれない。石のようにどっしり構えてもいない。火はね、気まぐれで、短気で、自尊心が高いんだよ」
「自尊心?」
「ああ。火は自分が世界で一番偉いと思っている。だから下手に出ると馬鹿にされるし、上から命じれば反発する。対等に語りかけるしかない——それが火の難しさだ」
カレは頷いた。炎に意識を向ける。全身で聴く。火が何を語っているか、言葉で受け取れ。
炎の声は荒々しかった。激しく、落ち着きがない。揺れる炎の一つ一つに意志があるように、気まぐれに形を変え続ける。何度も集中しようとして、そのたびに炎の気まぐれに振り回される。
「火は……燃えるもの?」
口にした途端、炎がぱちんと爆ぜた。火の粉がカレの顔の近くまで飛んで来て、慌てて顔を背ける。
違う。そんな表面的な言葉では、火は応えない。ロヴィアタルが言った通りだ。上から命じれば反発する。
「もっと深くに何がある」
カレは声を出さず、心の中で火に訊いた。お前は何だ。燃えるだけが全てじゃないだろう。もっと奥にある、お前自身は——。
すると、炎の奥に何かが見えた。燃え盛る表層の下にある、もっと根源的なもの。それは怒りでも破壊でもなかった。もっと穏やかで、もっと温かい。人の手が届かない冬の夜に、焚き火が旅人を生かしてきた——その記憶のようなもの。
「お前は——」
カレが口を開いた。言葉が、すとんと落ちてきた。考えて選んだのではない。火の声を聴いた体が、自然に言葉を紡いだ。
「お前は、温もりだ」
炎が変わった。
荒々しく揺れていた焚き火が、一瞬で穏やかになった。炎の形がカレの意志に従うように、ゆったりとした円を描く。火の色が赤から橙に変わり、柔らかな光が周囲を照らした。熱が和らぎ、暖かさだけが残った。焚き火が——微笑んだように見えた。
成功だ——と思った次の瞬間、制御が外れた。
炎がバチンと跳ね、火の粉が散る。カレが慌てて身を引くと、ロヴィアタルが素早く手をかざし、古い歌の一節を呟いた。炎が元の焚き火に戻る。
「方向は合っている」
老婆が淡々と言った。
「だが力が粗い。百回やれ」
「百回……」
「泣き言を言う暇があるなら火に訊け。お前は温もりだと言ったら、火は喜んだだろう。その喜びの形を、もっと長く保てるようになれ」
それから日が沈むまで、カレは繰り返した。火に語りかけ、一瞬だけ応答を得て、すぐに制御を失う。その繰り返し。十回、二十回、三十回。手を火に近づけすぎて指先を焼いた。四十回目で炎が暴れて袖口に燃え移り、ロヴィアタルに消してもらった。
だがやがて、成功の感覚が体に染みついてくる。五十回を過ぎた頃から、炎が応える一瞬が少しずつ長くなった。二秒が三秒になり、五秒になり、十秒になった。七十回を過ぎると、火の色を変えたまま数十秒保てるようになった。
夕方になると、カトゥマ廃村のささやかな共同食卓に人が集まった。
セッポが釣ってきた魚を焼き、マルヤが薬草の汁物を作る。ヴェイッコが皿を並べて回る。朽ちかけた広場の中央に置かれた古い木のテーブルを囲んで、廃村の住人たちが夕食を共にする。食事は質素だった。魚は小さく、汁物は薄い。だが温かい食卓を囲む習慣だけは、この廃村の人々が手放さなかったものだった。
「カレ兄ちゃん、今日もすごかった?」
ヴェイッコが目を輝かせて訊いてきた。六歳になったばかりの少年は、カレの修行をいつも楽しみにしている。
「すごくはない。まだ全然だよ。七割失敗する」
「三割成功するならすごいじゃん! 見せて見せて!」
ヴェイッコに押し切られ、カレは焚き火の前に立った。住人たちの視線が集まる。五人か六人。廃村の全住人が、期待と不安の入り混じった目でカレを見ている。気恥ずかしさを押し込めて、炎に向き合う。
「お前は温もりだ」
焚き火の炎が、ふわりと大きくなった。橙色の光が周囲を明るく照らす。夕暮れの薄闇が後退し、住人たちの顔が温かな光に浮かび上がる。そしてカレが手を下げると、炎が静かに小さくなり、穏やかな光だけが残る。
拍手が起きた。
「おお!」とセッポが膝を叩いた。「やるじゃないか、カレ!」
「カレ兄ちゃんすごい!」ヴェイッコが飛び跳ねた。
「村を追い出されたもん同士、応援するぞ」
セッポが笑いながらカレの背を叩く。この男もまた、かつて別の村を追われた流れ者だった。窃盗の濡れ衣を着せられたと言っていたが、真偽は誰も問わない。カトゥマ廃村には、そういう人間が集まっている。行き場を失った者たちの、最後の居場所。
「あなたの歌、温かいわ」
マルヤが微笑んだ。四十がらみの穏やかな女性で、廃村の食事を一手に引き受けている。
カレは言葉を詰まらせた。
温かい。
生まれて初めてだった。自分の歌を「温かい」と言ってもらえたのは。ソルミ村では、カレの歌は気味が悪いと言われた。「おかしな声を出すな」と叱られた。測定器がゼロを示したとき、両親の目から光が消えたのを覚えている。
「……ありがとう、ございます」
それだけ言うのが精一杯だった。声が震えていることを悟られたくなくて、カレは魚の骨をむしることに集中した。目の奥が熱いのは、焚き火のせいだと自分に言い聞かせた。
夜空の下で、カレは自分の手を見つめた。
この手で火を操れた。小さな力だけれど、誰かが喜んでくれた。
初めて、歌える自分が嫌いじゃなかった。




