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歌えない魔法使いは追放された ~才能ゼロの烙印を押された歌は、世界を創り変える禁呪だと誰も知らない~  作者: 蒼月よる


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魔法の臼

 夜になると、ロヴィアタルの家は薬草の匂いに包まれた。

 囲炉裏の火が揺れ、壁に干された薬草の束が影を落とす。天井の梁に吊るされた乾燥中の根菜が、微かに揺れている。カレは木の椅子に座り、手のひらに残る樫の木の感触をまだ反芻していた。あれから数日、修行は続いている。小さな草花に語りかけ、石に語りかけ、風に語りかけた。成功と失敗を繰り返し、少しずつ「聴く」精度が上がってきている。

「今夜は修行の話じゃない」

 ロヴィアタルが囲炉裏の向かい側に座った。煎じ薬の入った木の器を両手で包みながら、老婆はカレを見つめた。いつもの穏やかな目ではなく、どこか覚悟のような色が混じっている。

「お前に教えておくべきことがある。サンポについてだ」

「サンポ?」

 名前は知っていた。ソルミ村の子供でも知っている。村の年寄りが囲炉裏端で語る昔話の定番だ。サンポが失われたから世界が飢えている。それくらいの知識は、追放される前から持っていた。

「サンポとは何か。正確に言えるかい」

「……魔法の臼、ですよね。穀物と塩と富を生み出す」

「そうだ。概ね正しい」

 ロヴィアタルが頷いた。囲炉裏の火が老婆の顔を照らし、右目の古傷が橙色の影に沈む。

「サンポは鍛冶の神イルマリネンが鍛えたとされる。穀物を挽けば穀物が無尽蔵に溢れ、塩を挽けば塩が湧き、金貨を挽けば富が生まれる。カレヴァの地はかつてサンポの恩恵で豊かだった。飢饉など誰も知らなかった時代さ」

 老婆が煎じ薬を一口含んだ。苦い匂いが漂う。薬草の匂いに混じって、囲炉裏の煙の匂いがある。カレはこの匂いが好きだった。ソルミ村の実家にも似た匂いがあった。だがあそこの囲炉裏の前で、こんな話を聞かせてくれる人はいなかった。

「サンポがあった時代は、大地は肥沃で、作物は豊かに実り、冬も今ほど厳しくなかった。歌い手の力も強かった——世界全体にルーノの力が満ちていたからね。サンポは世界のルーノの循環を支える柱のようなものだった」

「柱……」

「そうだ。そして——その柱が失われた」

 ロヴィアタルの声が低くなった。

「ポヒョラの女主人ロウヒがサンポを北の闇の国に持ち去った。それ以来、カレヴァの地は飢饉と寒冬に沈んでいる。大地のルーノは年々衰え、作物は枯れ、歌い手の力は弱まり、冬は南に伸び続けている」

「それをロウヒが奪った」

「そう、みんなはそう言う。取り戻せば世界は元に戻る——というのが、みんなの知っている話だ」

 ロヴィアタルの声に、微かな棘があった。「みんなの知っている話」という言い方が引っかかる。まるでその話には続きがあるのに、あえて省いているような。

「じゃあ、誰も取り返しに行かないんですか」

「行った者はいる」

 老婆が器を傾け、煎じ薬をもう一口含んだ。

「誰も帰ってきていない」

 囲炉裏の火が音を立てた。沈黙が重い。外では風が吹いて、屋根の隙間からぴゅうと冷気が忍び込んだ。

「ポヒョラは遠い。境のラヤメッツァを越えるだけで命がけだ。一週間以上かかる巨大な原生林で、極寒と魔物ヒーシに満ちている。たどり着いたところで、ロウヒは歌の力も武力も桁外れ——挑んだ歌術師は皆、跳ね返されたと聞いている」

 カレは黙って聞いていた。サンポの話は知っていたが、こうして詳しく聞くのは初めてだった。ソルミ村では「サンポを取り戻しに行こう」などと言う者はいなかった。そんな余裕もなかった。ただ飢えて、耐えて、誰かを口減らしに追い出すだけの日々。カレ自身が、その口減らしの一人だった。

 ふと思った。サンポが失われたから世界が飢えている。世界が飢えているからソルミ村も苦しかった。村が苦しかったから、才能のない自分は追い出された。全ての始まりは——サンポの喪失にあるのだ。

「ロウヒは強いんですか」

「強い、というだけでは足りない」

 ロヴィアタルが囲炉裏の火をじっと見つめた。炎が老婆の瞳に映って揺れている。

「ロウヒの歌は、わしが知る限り、カレヴァで最も強い。歌術師が束になっても勝てない。境の森を越えてたどり着いたとしても、ポヒョラの宮に入ることすらできないだろう」

 絶望的な話だった。だがロヴィアタルの口調には、不思議と絶望がなかった。ただ事実を述べているだけのような、静かな声。

「ばあさんは……ロウヒのことを知っているんですか」

 一瞬、ロヴィアタルの表情が固まった。

 ほんの一瞬だけ。瞬きほどの間。すぐに穏やかな笑みに戻る。だがカレはそれを見逃さなかった。修行で「聴く」力を養ったせいか、人の表情の機微にも敏感になっている。

「噂で知っているだけさ。ポヒョラの女主人、世界を飢えさせた張本人——恐ろしい魔女だとね」

 嘘だ、とカレは思った。いや、嘘とまでは言えない。だがロヴィアタルの目が一瞬だけ、遠い場所を見ていた。噂だけではない何かを、この老婆は知っている。ロウヒという名前を口にしたときの声の微かな揺れ。それは噂話をする人間の声ではなかった。

「ロウヒとは何者ですか。本当は」

「今のお前に必要なのはそこまでだ」

 ロヴィアタルが話を断ち切った。口調は穏やかだったが、有無を言わせない重みがあった。その時が来れば分かるよ——と言いそうな目をしていた。

「サンポが失われたから世界が飢えている。お前が感じているルーノの衰え——畑が枯れ、歌の力が弱まっている原因は、そこにある。それだけ覚えておけ」

 カレは口を閉じた。深追いすべきではないと、直感が告げていた。ロヴィアタルには秘密がある。しかしこの老婆は、時が来れば話してくれる人だ。少なくとも、カレはそう信じたかった。

「……わかりました」

「いい子だ。さあ、寝な。明日も修行だよ」

 寝台に横になっても、カレの頭の中ではロヴィアタルの言葉が渦を巻いていた。

 サンポ。魔法の臼。取り戻せば世界は元に戻る。だがロヴィアタルの言い淀みが気になる。あの一瞬の表情の硬直。ロウヒの名を口にしたときの声の揺れ。

「みんなの知っている話」の裏には——何があるのだろう。


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