樹の名前
翌朝、ロヴィアタルはカレを森のさらに奥へ連れていった。
獣道を外れ、苔と羊歯の絨毯を踏み分けて進む。朝露が外套の裾を濡らし、蜘蛛の巣が顔にかかった。ロヴィアタルは杖で蜘蛛の巣を払いながら、よどみなく歩く。この森を知り尽くしている足取りだった。
やがて一本の古い樫の木の前で、老婆は足を止めた。
それは見事な大木だった。幹は二人で腕を回しても足りないほど太く、枝は天蓋のように頭上を覆っている。樹皮は深い皺に刻まれ、苔と地衣類がまだらに張りついていた。枝の分岐には鳥の巣がいくつもあり、根元には大きな瘤が盛り上がって、まるで顔のように見える。この森で最も古い樹の一つだろう。百年、いや二百年は生きているかもしれない。
「この樹の前に立て」
ロヴィアタルが杖で樫の木を指した。
「手を幹に当てて、目を閉じろ。昨日と同じだ。聴け」
カレは樫の幹に右手を当てた。樹皮の凹凸が掌に食い込む。苔の湿り気と、その奥にある木の温もりが伝わってくる。目を閉じる。
世界が暗くなる。風の音、鳥の声、葉擦れ——それらを意識の端に追いやり、手のひらの下の樹に集中する。
昨日の感覚を思い出す。耳ではなく全身で。音を拾うのではなく、意味を受け取る。
しばらく何も感じなかった。焦りが胸を突く。昨日の夕方には確かに聴こえたのに。あれは幻だったのか。
だが焦りを飲み込んだ。深呼吸する。焦りもまた雑音だ。意識の端に追いやる。ただ、聴く。
——来た。
微かだが、確かに何かがある。樹の奥底から立ち上がってくる「声」。それは言葉ではない。しかし意味を持っている。
この樫の木が、長い歳月をかけて根を張り、幹を太らせ、枝を広げてきた記憶のようなもの。嵐に耐えた冬。鳥が巣を作った春。木漏れ日が踊った夏。葉を落とした秋。その全てが一つの響きとなって、カレの掌に伝わってくる。
そしてそのもっと奥——樹が「何であるか」という本質。
「……」
カレは口を開いた。何を言えばいいのかわからない。だが樹の声を受け取った体が、勝手に言葉を探し始めていた。
それは定型歌の言葉ではなかった。歌学院で教わった「樹のルーノ」の歌詞とはまるで違う。定型歌の「樹よ、わが意に従い枝を揺らせ」という一方的な命令ではない。もっと生々しい。もっと近い。対話だ。
「——お前は」
声が出た。自分の声なのに、自分のものではないような不思議な感覚。言葉が頭で作られるのではなく、胸の奥から直接湧き上がってくる。
「お前は、ここに根を張り、百年の風雪に耐えてきた」
幹が微かに震えた。気のせいかと思ったが——掌の下で、確かに木が反応している。
「お前の枝は鳥たちの家で、お前の根は大地の骨だ」
頭上で葉がざわめいた。風はないのに。
「お前は——」
最後の言葉が、喉の奥から溢れるように出た。
「《《静かなる見守り手》》」
樫の木が応えた。
風もないのに、枝という枝が一斉に揺れた。葉が波打ち、木漏れ日の模様が踊るように動いた。幹に当てた掌に、温もりが伝わってくる。寒い朝なのに、樹が熱を持っているように温かい。まるで樹が——名前を呼ばれて、喜んでいるかのように。
カレは目を開けた。
樫の木は微かに光を帯びていた。枝先の葉が朝日とは違う淡い輝きを放ち、幹を這う苔まで仄かに明るくなっている。数秒でその光は消えたが、見間違いではなかった。掌の下の温もりが、まだ残っている。
「応えた……」
カレは自分の手を見つめた。震えている。
「樹が、俺の言葉に応えた」
信じられなかった。十九年間、何を歌っても響かなかった。定型歌は崩れ、測定器はゼロを示し、村人たちは目を逸らした。母は泣き、父は黙り込み、村長は追放を告げた。それなのに今、一本の古い樫の木が、カレの言葉に応えて枝を揺らした。
「まだ赤ん坊の一歩だ」
ロヴィアタルの声が背後から聞こえた。厳しい声だった。
「ここからが長い。枝を揺らすのと、樹を動かすのは違う。今のは樹が気まぐれで応えてくれただけとも言える。お前の言葉がたまたま樹の琴線に触れた——それだけだ」
カレは振り返った。老婆の言葉は厳しかったが——その目が笑っていた。皺の奥で、灰色の瞳が温かく光っている。右目の古傷の下で、口元が微かに緩んでいた。
「でも、ばあさん。応えた。世界が、俺の言葉に——」
「ああ。応えた」
ロヴィアタルが小さく頷いた。
しばらく沈黙が流れた。風が樫の木の枝を撫で、葉がさらさらと鳴った。カレの中で、ずっと胸に溜まっていたものが溢れそうになっている。
「……俺は」
言葉が詰まった。一度飲み込んで、別の言い方を探す。いつもそうだ。本心を言おうとすると、言葉が真っ直ぐに出てくれない。
「俺は、才能ゼロじゃなかったんですか」
「物差しが違っただけさ」
老婆が杖を突いて歩き始めた。
「お前の力は、定型歌の枠に収まらなかった。歌学院の測定器は、定型歌の再現度を測るもの——お前の歌を測れる道具は、この世に存在しないんだよ」
カレは立ち尽くしていた。膝が震えていた。泣きそうだった。けれど泣かなかった。泣くにはまだ早い。これは始まりにすぎないと、ロヴィアタルが言ったばかりだ。
代わりに、もう一度樫の木を振り返った。大木は何事もなかったように静かに立っている。風が枝を撫で、葉が囁くように揺れた。さっきの光はもうない。だが樹が少しだけ——ほんの少しだけ、カレに向かって枝を伸ばしているような気がした。
帰り道、カレは何度も自分の手を見つめた。
この手で、この声で、世界に触れることができる。才能ゼロの少年が、初めて自分の歌を見つけた日。
だがそれは——まだ始まりにすぎない。




