定型歌を忘れろ
夜明け前の薄闇の中で、カレは肩を揺さぶられた。
「起きな。修行初日だ」
ロヴィアタルの声だった。まだ鳥も鳴いていない。窓の外は濃い藍色で、星がいくつか残っている。カレは寝台から身を起こし、目を擦った。全身のあちこちが鈍く痛む。あの暴発の夜から三日が経っていたが、体の奥底にまだ疲労が居座っている。
「……もう少し寝かせてもらえませんか」
「贅沢言うんじゃないよ。朝飯は歩きながら食え」
老婆は干し肉の塊を投げ寄越すと、杖を突いて部屋を出ていった。有無を言わせない背中だった。
カレは重い体を引きずって支度をした。擦り切れた革の長靴を履き、灰色の外套を羽織る。干し肉を齧りながら外に出ると、カトゥマ廃村の朝は静かだった。朽ちかけた家々の隙間から白い霧が立ち込め、白樺の幹が幽霊のように浮かんでいる。まだ誰も起きていない。セッポの家からは鼾が聞こえ、マルヤの家の煙突からはまだ煙が出ていなかった。
ロヴィアタルは既に歩き始めていた。小柄な体が霧の中をするすると進む。杖の先が落ち葉を踏む音だけが、朝靄に響いている。
二人は廃村を抜け、森の奥へと入っていった。獣道を辿り、苔むした岩を越え、倒木を跨ぎ、小川を渡る。やがて古い樹々に囲まれた開けた場所に出た。樹々が円形に並び、中央には苔むした切り株がいくつかある。木漏れ日が苔の上に光の模様を落とし、空気は冷たくて澄んでいた。
「ここだ。座りな」
ロヴィアタルが切り株の一つに腰を下ろした。カレもその向かいに座る。老婆は杖を膝の横に立てかけ、片目を細めてカレを見つめた。
「まず最初に言っておく」
声が変わった。世間話の調子ではない。
「定型歌を忘れろ。お前には必要ない」
カレは目を瞬いた。
「忘れるって……定型歌は歌の基礎じゃないんですか。ルーノラでも最初に教わるのは定型歌の暗唱で——」
「ルーノラの教え方はルーノラのものだ。わしはわしのやり方で教える」
ロヴィアタルが片手を振った。
「忘れたら、何を基準に歌えば——」
「基準なんかいらないんだよ」
老婆が地面から一本の枯れ枝を拾い上げた。
「いいかい、カレ。昔——ワイナミョイネンの時代、歌は自由だった」
ワイナミョイネン。伝説の歌い手。歌でこの世界を創ったと謳われる最初のルーノイヤ。カレが物心つく前から、その名は聞かされてきた。
「あの時代、歌い手は世界と語り合い、世界が応えた。言葉は生きていて、旋律は風のように自在だった。決まった形なんてものはなかったのさ。樹に語りかければ樹が応え、水に歌えば水が踊った。歌い手と世界の間に、壁はなかった」
ロヴィアタルが枯れ枝で地面に線を引いた。
「だがね、ワイナミョイネンの時代が終わり、歌い手の数が増えると、困ったことが起きた。自由な歌は才能のある者にしか使えない。大勢のルーノイヤを育てるには、歌を規格化する必要があった。そこで生まれたのが定型歌さ」
枯れ枝の線が、地面に四角い枠を描いた。
「言葉を固定し、旋律を決め、効果を安定させた。誰でも使えるように。便利だよ。効率もいい。だがね——」
老婆がカレを見つめた。灰色がかった瞳に、朝の光が宿っている。
「手紙のひな型で、恋文が書けるかい?」
カレは答えられなかった。
「定型歌は、世界との会話を『手紙のひな型』に押し込めたようなものさ。大抵の用事はそれで足りる。だがお前のように——世界の声が直接聴こえてしまう人間には、ひな型は邪魔にしかならない」
心臓が跳ねた。世界の声が直接聴こえる。そんなふうに言われたことは一度もなかった。
「お前が歌学院で『間違い』と言われた歌。あれは間違いじゃない。定型歌のひな型に収まらなかっただけだ。お前の歌は——お前自身の言葉で、世界と語り合おうとしていたんだよ」
カレは俯いた。喉の奥が熱くなった。十九年間、歌えないと言われ続けた。おかしな歌だと笑われ続けた。それが——世界と語り合おうとしていた?
「じゃあ……俺はどうすれば」
「まずは聴くことだ」
ロヴィアタルが周囲を見渡した。木々が風にそよぎ、鳥が枝から枝へ飛び移る。木漏れ日が苔の上を滑る。
「今日は何もするな。ただ座って、聴け」
「聴く? 何を——」
「それを自分で見つけるんだよ。歌う前に、まず世界が何を言っているか聴かなきゃ、会話にならないだろう」
カレは困惑したまま目を閉じた。
風の音が耳に届く。木々の葉擦れ。遠くで啄木鳥が幹を叩く乾いた音。小川のせせらぎ。苔を踏む虫の足音。それ以上のものは何も聞こえない。
何を聴けばいいのかわからない。いや、何を聴くべきなのかもわからない。定型歌なら歌詞を覚えれば済んだ。下手でも形はあった。だが「聴け」と言われても、何の手がかりもない暗闇に放り込まれたようなものだ。
一刻が過ぎ、二刻が過ぎた。日が高くなり、木漏れ日の角度が変わった。風が向きを変え、鳥の種類が移り変わった。カレの足が痺れ、腰が痛くなった。それでも座り続けた。
何も起きなかった。
やがて日が沈み始めた頃、ロヴィアタルが立ち上がった。
「今日はここまで」
「……何も聴こえませんでした」
カレは項垂れた。やはり自分には無理なのだと、あの暗い思いが首をもたげる。あの暴発は偶然だったのかもしれない。結局自分は才能ゼロで——
「当たり前だ」
老婆は笑った。からからと乾いた笑い声が、夕暮れの森に響く。
「初日で聴こえたら苦労しないよ。明日も同じだ」
帰り道、カレは黙って歩いた。定型歌を忘れろと言われた。世界を聴けと言われた。何もわからない。何も聴こえない。でも——ロヴィアタルの言葉が、胸の奥で微かに光っている。
全てのものにはルーノがある。定型歌はその写し書きにすぎない。ならば原文が読めたら——何ができるのだろう。
小さな期待が、まだ名前もない芽のように、カレの中で息を始めていた。




