異常反応
地鳴りは、まだ続いていた。
カレが倒れた後も、大地の揺れは収まらなかった。余波が森を震わせ、木の枝から葉が降り注ぐ。空気そのものが振動し、鼓膜に圧がかかる。大地の底から唸りが響いている。
タパニは片膝をつき、地面に手をついて体を支えていた。目が見開かれている。三十年の歌術師経験の中で、こんな現象に遭遇したことはない。ユハは木の幹にしがみつき、顔を蒼白にしていた。
「何だ——この歌は」
タパニが呻いた。
歌。そう、これは歌だ。カレが叫んだ「ここを壊すな」という言葉が、大地の中にまだ響いている。地鳴りの中に意志がある。混沌ではない。一つの明確な命令——「壊すな」——が、地面の振動となって世界に刻まれている。
揺れには方向性があった。廃村の内側は比較的穏やかで、外側——タパニとユハのいる方向に向かって強くなっている。まるで目に見えない壁が、廃村を守るように立っている。
「定型歌じゃない。こんなルーノは——知らない」
ユハが叫んだ。風のルーノを歌おうとしたが、声が震えて旋律が崩れる。地鳴りの振動が声帯を揺さぶり、定型歌の精密な構造を保てない。定型歌は正確な言葉と正確な旋律の両方が揃わなければ作動しない。振動が一方を乱すだけで、歌は力を失う。
「歌えない——声が、旋律が——」
ユハが両手で喉を押さえた。歌えないことへの恐怖が、顔に浮かんでいた。歌術師にとって歌えないことは、剣士が剣を奪われるに等しい。
ロヴィアタルは杖に縋って立ち上がっていた。
疲弊した体に鞭を打ち、戦場を観察する目で地鳴りの余波を見ている。
普通の暴発なら、無差別に破壊が広がる。建物も人も地面も、区別なく崩れる。歌の力が制御を失えば、周囲一帯を等しく荒らすのが常だ。だが今の地鳴りは——廃村を避けている。
揺れは家々の土台を避け、薬草園の畝を避け、人のいる場所を避けて、外に向かって広がっている。家の壁は軋んでいるが、倒れていない。屋根から茅が落ちているが、梁は折れていない。
まるで、大地がカレの言葉を理解しているかのように。「ここを壊すな」という命令を聞き、その通りに動いている。
「……言葉のルーノ」
ロヴィアタルの口から、呟きが漏れた。
「まさか。本当に——」
言葉のルーノ。古い文献に記された、定型歌以前の歌の力。言葉で世界の本質に触れ、言葉で世界を書き換える——失われたはずの始原の力。ロヴィアタルが生涯をかけて追い求めた、あの力。文献の中にしか存在しないと思っていた力の片鱗が、今、目の前にある。
暴発だ。制御はされていない。カレ本人は何が起きたかも理解していない。意図して起こしたものではない。だが力の質が違う。定型歌の「既存のルーノを再現する」力ではなく、「新しいルーノを世界に刻む」力。カレの言葉が——世界に、直接触れている。
老婆の手が震えた。歓喜と畏怖が同時に押し寄せた。何十年も探し続けたものが、こんな形で——才能ゼロと烙印を押された少年の中にあったとは。
地鳴りが収まり始めた。
カレの意識が途切れたことで、力の源泉が絶たれた。余波は徐々に弱まり、木々の揺れが止まり、地面が静まった。鳥が恐る恐る鳴き始めた。
タパニが立ち上がった。顔が強張っている。服に泥がついている。膝が震えているのを、意志の力で止めていた。
「ユハ」
「……はい」
「撤退する」
ユハが驚いた顔をした。
「まだ任務が——」
「こんな化け物がいるとは聞いていない」
タパニの声は硬かった。恐怖を押し殺している声だった。化け物——その言葉が、無意識に口をついて出た。三十年の歌術師経験の中で、定型歌でない力に遭遇したのは初めてだ。対処法がわからない。わからないものに挑むのは、勇気ではなく愚行だ。
「ヴァルプ様に報告する。俺たちだけでは手に負えない」
ユハは反論しなかった。彼もまた、あの地鳴りの中で歌を封じられた恐怖を味わっていた。二人の歌術師は森の中に姿を消した。逃げるような速さだった。
廃村に、静寂が戻った。
しばらく誰も動かなかった。家の中から恐る恐る顔を出す住人たち。薬草園の畝は無事だった。屋根の一部が吹き飛ばされた家があったが、倒壊はしていない。けが人もいなかった。
セッポがカレの傍に駆け寄った。
「カレ! おい、カレ!」
カレは地面に倒れたまま、意識がなかった。呼吸はある。脈もある。だが体が冷たく、顔色が土のように白かった。
ロヴィアタルが杖をつきながら近づいた。老婆もまた限界に近い体だったが、カレの顔を覗き込んだ。
「運びな。わしの家に」
セッポがカレを軽々と抱え上げ、ロヴィアタルの家に運んだ。カレの体は軽かった。体力が戻りかけていたとはいえ、十九年間ろくに食べていなかった体は、まだ細い。
カレが目を覚ましたのは、その日の夜だった。
薬草の匂い。天井の梁。見覚えのある光景。ロヴィアタルの家の寝台だった。七日前にもここで目を覚ました。同じ天井、同じ匂い、同じ毛皮の掛け布。
全身が痛い。頭が重い。記憶が曖昧だった。追手が来て、ロヴィアタルが戦って、結界が砕けて——それから。
「何が……」
声が掠れた。
「起きたかい」
ロヴィアタルが傍に座っていた。疲弊した顔だが、目だけは鋭く輝いている。竈の火が老婆の横顔を照らしている。
「追手は」
「逃げたよ。お前が追い払った」
「俺が?」
記憶がない。叫んだことは覚えている。「ここを壊すな」と叫んだ。その後のことが——何も思い出せない。地面が揺れた気がする。だがそれが自分の歌のせいだとは、到底思えなかった。
「あの……何が起きたんですか」
ロヴィアタルは少し間を置いた。言葉を選んでいるように見えた。蝋燭の炎が揺れ、老婆の影が壁の上で揺れた。
「お前がやったことの意味、わかるかい」
「……わかりません」
「わからなくて当然さ」
老婆が静かに言った。
「あれは、この世界でほとんど誰も知らない力だ。定型歌とは違う。ルーノラの測定器では測れない。測定器が測っているのは定型歌の再現度だけだ。お前の力は——それとは全く別のものだ」
カレの胸が跳ねた。
「だからお前は『該当なし』だった。ゼロなんかじゃない。ゼロどころか——測定器の範囲を超えているんだよ」
ロヴィアタルが立ち上がった。杖を突き、カレの目を真っ直ぐに見下ろした。疲弊した老体だが、その瞬間だけ——かつて大ルーノラの首席だった女の気迫が立ち上った。背筋が伸び、声に力が籠もった。
「お前に本当の歌を教える」
カレは息を飲んだ。
「定型歌じゃない。お前自身の言葉で世界に触れる歌を。古い歌を。本来のルーノを」
老婆の目が、蝋燭の炎を映して光っていた。
「覚悟はいいかい、ゼロの子」
カレは寝台の上で体を起こした。全身が軋んだ。腕が震えた。だが——
「……はい」
声は掠れていた。だが確かだった。
「お願いします、師匠」
師匠。初めてそう呼んだ。言葉が口から出た瞬間、それが正しいと感じた。この人はカレにとって、師匠だ。才能ゼロの歌に何かを見た、唯一の人だ。
ロヴィアタルの口元が緩んだ。からからと乾いた笑い声が部屋に響いた。老婆の笑い声は、いつも乾いている。だがどこか温かい。枯れた木が風に鳴るような、味のある音だ。
「よし。じゃあ明日から——本当に地獄だよ」
師弟関係が始まった。
カレの歌は「間違い」ではなく、「規格外」だった。




