ここを壊すな
結界が砕けたのは、夜明け前だった。
ガラスが割れるような音ではなかった。もっと深い——大木が根元から折れるような、低く重い音が森全体に響いた。空気が震え、カレの肌に鳥肌が立った。地面が一瞬だけ揺れ、薬草園の葉から朝露が一斉に落ちた。
ロヴィアタルが杖に縋るようにして立っていた。一晩中歌い続けた体はもう限界だった。白い髪が汗で額に貼りつき、頬がこけ、呼吸が荒い。顔色が青白い。だが目だけは、まだ鋭かった。
「来る」
短く言った。
森の奥から、二つの影が現れた。
朝もやの中を歩いてくる二人の男。一人は長身。タパニだ。右手を前に突き出し、指先に微かな光が揺れている。火のルーノの構え。もう一人は小柄。ユハ。両手を広げ、風のルーノの準備をしている。手の周りに空気の渦が微かに見えた。
二人とも、夜通し結界を叩き続けていたとは思えないほど冷静な顔をしていた。交代で休息を取っていたのだろう。対してロヴィアタルは一人で結界を維持し続けた。体力の差は歴然としていた。
「カトゥマ廃村の者か」
タパニが声を張った。訓練された声だ。遠くまで通る。戦場で命令を飛ばすための声。
「ソルミ村の追放者カレを引き渡してもらう」
ロヴィアタルが前に出た。杖を地面に突き、タパニの目を見た。小柄な老婆が、長身の歌術師の前に立ちはだかった。
「引き渡す気はないよ」
掠れた声だが、怯んでいない。
「老婆。邪魔をするなら——」
「邪魔はしない。だがあの子を殺させもしない。帰りな」
タパニの目が細くなった。
タパニの口が動いた。
火のルーノの詠唱。正確で速い。八小節の定型歌を四小節に圧縮した戦闘詠唱——熟練した歌術師にしかできない技だ。空気を裂くような旋律が響き、タパニの掌から橙色の炎が飛んだ。拳ほどの火球が、廃村の中央に向かって——
ロヴィアタルが歌った。
定型歌ではなかった。もっと古い、自由な旋律。カレが森で聴いたあの歌声と同じ種類の歌だ。低く素朴で、型がない。だが確かな力がある。言葉が火球に触れた瞬間、炎が揺れた。
火球が逸れた。ロヴィアタルの歌に押されるように、軌道を変えて廃村の手前の地面に落ちた。土が焦げ、煙が上がった。住人たちの悲鳴が家の中から聞こえた。
「ほう」
タパニが眉を上げた。
「古い歌か。ルーノラの異端者崩れがこんなところにいたとは」
「異端者で結構だよ。お前たちの物差しに合わなかっただけさ」
ロヴィアタルの声は掠れていたが、気迫は衰えていなかった。
だが二対一だった。
ユハが横合いから風のルーノを放った。突風が廃村を薙ぎ、屋根の茅が吹き飛ばされる。マルヤの家の壁が軋み、中からヴェイッコの泣き声が聞こえた。高い、怯えた泣き声。カレの胸が締めつけられた。
ロヴィアタルが風を逸らそうとしたが、同時にタパニが二発目の火を放つ。二方向からの攻撃。一人でさばくのは、全盛期ならともかく今の老体には酷だった。
火を逸らし——風を受けた。ロヴィアタルの体が後方に押され、片膝をついた。杖が地面に深く刺さり、老婆はそれに縋って崩れ落ちるのを堪えた。唇から血が滲んでいた。歌い続けた喉が裂けたのだ。
息が荒い。肩が上下している。限界が近い。
「そこの小僧を引き渡せば、村は壊さん」
タパニが言った。冷酷ではなかった。ただ事務的だった。任務を遂行しようとしている、それだけの声だった。
「二度は言わんぞ」
カレは家の陰から見ていた。
体が震えていた。足が動かない。恐怖が全身を縛りつけている。歌術師の歌は本物の暴力だった。火が飛び、風が吹き、大地が焦げる。カレが知っているルーノとは次元が違う。ルーノラ分校で見た穏やかな定型歌とは別物だ。これは——武器だ。人を傷つけるための歌。
だが——背後にはマルヤとヴェイッコがいる。ヴェイッコの泣き声が聞こえる。セッポが家の中で斧を握っている。寡黙な女が、怯えた老人の手を握っている。カレを受け入れてくれた人々が、震えながら家の中にいる。
俺が出ていけば終わる。
その考えが浮かんだ。出ていって、タパニたちに引き渡されれば、廃村は無事だ。合理的な判断だ。ソルミ村でもそうだった。カレがいなくなれば、問題は解決する。いつもそうだ。カレが消えれば、全てがうまくいく。
足が前に出た。
だが——「出ていく」のではなかった。
カレは家の陰から飛び出し、ロヴィアタルとタパニの間に立った。
両腕を広げ、廃村の人々を背にして、歌術師たちの前に立ちはだかった。
「どけ、小僧」
タパニが言った。苛立ちが声に滲んでいた。
「お前が大人しく来るなら、村は壊さないと言っている」
カレの体が震えていた。声が出ない。恐怖で喉が張りつく。足が震えて、立っているのがやっとだ。
背後で、ヴェイッコが泣いている。マルヤの声が聞こえる。「大丈夫、大丈夫よ」と繰り返しているが、声が震えている。
セッポが家から出てこようとした。カレは首を振った。出てくるな。歌術師の前に出たら殺される。斧では定型歌には勝てない。
ユハが両手を広げた。風のルーノの構え。次の一撃で廃村を薙ぎ払うつもりだ。空気が渦を巻き始めている。風が唸っている。
「最後だ。どけ」
タパニの声が硬くなった。
カレは目を閉じた。
何もできない。歌えない。才能ゼロだ。定型歌は歌えない。戦うルーノなど知らない。
だが——体の奥から、何かが込み上げてきた。
恐怖ではない。怒りでもない。もっと単純な、もっと原始的な衝動。
守りたい。ここを守りたい。この場所を。この人たちを。ヴェイッコの笑顔を。セッポの穏やかな声を。マルヤの温かい手を。ロヴィアタルの——からからと笑う声を。
壊させない。
ユハの歌声が響いた。風のルーノ。空気が唸りを上げて渦を巻く。廃村を薙ぎ払う暴風が、カレに向かって——
「ここを壊すな!」
カレが叫んだ。
歌ではなかった。旋律もなかった。ただの叫び。ただの言葉。だがその言葉には、カレの全てが込められていた。守りたいという衝動が、恐怖を超えて、言葉になった。
大地が応えた。
足元から衝撃が走り、地面が激しく揺れた。地鳴りが森全体に響き、木々が震え、石が跳ね、土が裂けた。ユハの風が途切れた。タパニがよろめいた。廃村の家々が軋んだが——壊れなかった。
揺れは廃村を避けるように、外側に向かって広がっていった。地面が波打ち、追手のいる方向に向かって衝撃が走った。まるで大地が「ここを壊すな」という言葉を聴き、従ったかのように。
カレの足が崩れた。
力が抜ける。視界が暗くなる。全身から何かが一気に流れ出したような虚脱感。世界が傾いて、地面が近づいてくる。
最後に見えたのは、ロヴィアタルの目だった。驚愕に見開かれた——だがその奥に、恐怖ではなく、確信の光が宿っていた。
意識が途切れた。




