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歌えない魔法使いは追放された ~才能ゼロの烙印を押された歌は、世界を創り変える禁呪だと誰も知らない~  作者: 蒼月よる


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結界の軋み

 朝食の前に、ロヴィアタルがカレを呼んだ。

 老婆の顔は、昨日までと違っていた。穏やかさの下に、硬い何かがある。目の奥に緊張が走っている。

「お前に話がある。座りな」

 家の中で向かい合った。ロヴィアタルは杖を膝に置き、カレの目を見た。

「ソルミ村から追手が来ている」

 カレの血の気が引いた。

「追手——」

「歌術師が二人。結界の外まで来ている。昨夜から結界を叩き始めた。おそらく今日中に破ろうとするだろう」

 なぜ。追放されたのだから、もう関係ないはずだ。カレはもうソルミ村の人間ではない。なぜわざわざ追いかけてくる。

「お前の測定で何かがあったんだろう」

 ロヴィアタルの声は淡々としていた。長年の経験が、感情を押し込めさせているのだろう。

「制御できない力は危険だと判断されたんだよ。連れ戻すためじゃない。始末するためだ」

 始末。その言葉が、鉛のように胃に落ちた。始末。殺すということだ。

「俺のせいで……」

「そうだよ。お前のせいだ」

 ロヴィアタルは容赦なく言った。だが声には怒りがなかった。事実を述べているだけだ。

「だが逃げたって追ってくる。歌術師の追跡からは逃げられない。ルーノで気配を辿れるからね。それに——逃げる場所なんて、どこにもないだろう」

 カレは黙った。その通りだった。ソルミ村を追われ、街道で死にかけ、辛うじてこの廃村に辿り着いた。ここ以外に行く場所はない。この世界のどこに行っても、才能ゼロの追放者を受け入れる場所はない。

「結界で防げますか」

「完全には無理だ」

 ロヴィアタルが首を振った。

「飢饉でルーノの力が弱まっている。わしの結界も以前ほどの強度がない。中級の歌術師二人が本気で叩けば——長くは持たない」

 淡々としていた。恐怖も動揺もない。ただ事実を述べている。長年の経験がそうさせるのだろう。だがカレは、老婆の指先が微かに震えているのに気づいた。杖を握る力が、いつもより強い。


「俺が出ていけば——」

「聞こえなかったかい。逃げたって追ってくると言っただろう。それにお前が出て行ったら、この村を守る意味がなくなる」

 カレは言葉を飲んだ。ロヴィアタルは「お前を守るために村を守る」と言っている。カレが出て行けば、廃村の住人たちは安全かもしれない。だが——

「考えるな。考えるより先に、やることがある」

 ロヴィアタルが立ち上がった。杖が床を叩いた。

「結界を張り直す。お前は住人たちに伝えな。騒がず、家の中にいるように」


 カレは廃村の中を走った。

 セッポに伝えると、大柄な男は一瞬だけ顔を強張らせ——すぐに斧を手に取り「わかった」と頷いた。歌術師相手に斧は無意味だろう。だがセッポには、何もしないでいることができない性分があるらしい。

 マルヤに伝えると、顔色が変わった。ヴェイッコを抱きしめ、「この子を守る」と言った。声が震えていたが、目は据わっていた。

 他の住人たちにも順に知らせた。痩せた老人は黙って頷いた。片足を引きずる若い男は「どうすればいい」と訊いた。寡黙な女は織っていた布を畳んだ。

 恐怖が広がった。当然だ。歌術師が攻めてくるなど、武器を持たない廃村の住人には恐怖以外の何物でもない。定型歌の戦闘詠唱は、剣や槍よりも速く、広く、正確に人を傷つける。

「あの子のせいだ」

 声が聞こえた。誰が言ったのかは見えなかった。だがカレの背中に突き刺さる囁きだった。

「あの子が来なければ、こんなことには——」

 ソルミ村の記憶が蘇った。才能ゼロのカレがいるから水が穢れる。カレがいるから不幸が来る。ここでも同じだ。カレがいるから追手が来る。どこに行っても同じだ。カレの存在が、周りの人間を不幸にする。

 足が止まった。胸が痛い。呼吸が浅くなる。

「カレ」

 セッポの声だった。振り返ると、斧を肩に担いだ大柄な男が立っていた。

「気にするな」

 セッポは真っ直ぐにカレを見ていた。

「誰だって怖い時は誰かのせいにしたくなる。だがな——ばあさんが守ってくれる。ばあさんを信じろ。俺たちは信じて待つしかない」

 カレは拳を握りしめた。爪が掌に食い込んだ。

 今度は逃げない。ソルミ村の時とは違う。あの時は、逃げるしかなかった。戦う力もなく、守る理由もなかった。だが今は——ここには、守りたいものがある。


 夕方から、森の空気が変わった。

 結界の外で、二つの歌声が聞こえ始めた。低く、鋭い旋律。定型歌の戦闘詠唱だ。正確で、訓練された歌声。一つは火のルーノの系統——硬く鋭い母音の連なり。もう一つは風のルーノの系統——流れるような子音の波。

 結界が軋んでいる。

 音がするのだ。目に見えない壁に力が加わるたびに、空気が震え、木々の枝が揺れ、地面が微かに振動する。ロヴィアタルの古い歌で編まれた結界が、定型歌の攻撃に押されている。

 ロヴィアタルは廃村の中央に立ち、杖を地面に突いていた。目を閉じ、唇が動いている。低い声で——結界を補強する歌を歌い続けている。額に汗が浮かんでいた。白い髪が額に貼りつき、皺の深い顔が苦悶に歪んでいる。

「師匠」

 カレが駆け寄った。ロヴィアタルは目を開けなかった。

「離れていな。集中が要る」

 歌声が続く。結界の軋みが大きくなる。木々が揺れ、薬草園の上の空気が歪んで見えた。見えない壁が撓んでいる。弓のように、限界まで引き絞られた弓のように。

 カレは拳を握ったまま、立ち尽くした。何もできない。歌えない。才能ゼロの自分には、結界を張ることも、戦うことも、逃げることもできない。ただ見ていることしかできない。

 無力だった。


 夜になった。

 結界の外で二つの歌声がまだ聞こえている。定型歌の鋭い旋律が、結界を叩き続けている。休むことなく、交代で。一人が歌っている間にもう一人が休む。効率的な攻撃だった。

 ロヴィアタルの歌声が掠れ始めていた。老体に、長時間の歌唱は堪える。杖に体重を預け、時折咳き込みながら歌い続けている。膝が震えているのが、暗闘の中でもわかった。

 住人たちは家の中に閉じこもっていた。誰も眠れない。結界の軋む音が、夜通し廃村に響いていた。

 カレは家の前に座り、闘の中の結界の音を聴いていた。ロヴィアタルの歌声と、追手の歌声が交錯している。古い自由な旋律と、新しい正確な旋律。ぶつかり合い、軋み、押し合っている。

 結界が——限界に近い。

 追手は、もうすぐそこまで来ていた。


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