ロウヒ様の手
焚き火がぱちりと爆ぜた。
北の夜は厳しかった。日が落ちると気温は一気に下がり、吐く息が白く凍る。三人は火のそばに身を寄せて、毛布を肩にかけていた。
レンミンカイネンは剣を膝に置いたまま、すでに半分うとうとしている。
カレはアイノの横顔をちらりと見た。揺れる炎に照らされた白銀の髪が、橙色に染まっている。その紫がかった青い瞳が、火を見つめたまま動かなかった。
「アイノ」
「なに」
「ポヒョラって、どんなところだった?」
以前なら聞けなかった言葉だ。共鳴を経て、互いの感情が流れ込む経験をした。だからこそ今は、聞いてもいいと感じた。
アイノはしばらく黙っていた。カンテレを抱え直し、弦に指を添えたまま。
「……暗い国よ」
ようやく口を開いた声は、いつもの鋭さが抜けていた。
「半年以上、太陽が昇らない。空は永遠に灰色で、大地は凍って白い。でも——ロウヒ様のお城の中だけは暖かかった。サンポの力で穀物が実り、塩が尽きることなく、灯りが絶えなかった」
「そこで育ったのか」
「そう。物心がついた頃にはもう、ロウヒ様のそばにいた。両親の記憶はほとんどない。きっと差し出されたのだと思う。ロウヒ様に才能を見出されて」
アイノの指がカンテレの弦を無意識に撫でた。
「最初にカンテレを教わった日のことは覚えている。ロウヒ様が自分のカンテレを差し出して、私の手を取って弦に乗せた。……冷たい手だった」
声が微かに震えた。
「ロウヒ様の手は冷たかったけれど、カンテレを教えてくれた手でもあった」
カレは黙って聞いていた。口を挟むべき場面ではなかった。
「弾けるようになると褒めてくれた。……いいえ、褒めたのとは少し違う。『使える』と言った。私の音は使える、と。それがロウヒ様の賞賛だった」
アイノが苦笑した。笑うと少し痛そうだった。
「あの人に育てられた。でもあの人は私を道具として育てた。どっちも本当のこと」
恩と怒りが同居している。その矛盾を、アイノは隠さなかった。
「従わせるための演奏を求められた。敵を迎え撃つための戦闘旋律を仕込まれた。私の音楽は——人を支配する手段だった。ポヒョラではそれが当たり前だった」
「それで逃げたのか」
「耐えられなくなったの。自分の音が、人を縛るためだけに使われることに」
アイノがカンテレの弦を一つ、弾いた。澄んだ音が夜の空気を震わせ、焚き火の炎がわずかに揺れた。温かい音だった。
「でも——」
アイノが言葉を切った。
「逃げてもカンテレは捨てられなかった。ロウヒ様に教わった弾き方を、今も使っている。それが、いちばん矛盾してるところ」
レンミンカイネンは黙って聞いていた。
うとうとしていたはずだが、いつの間にか目を開けて、火を見つめている。何も言わない。口を挟まないことが、彼なりの気遣いなのだろう。
カレは言葉を選んだ。正解はわからない。だが嘘は言いたくなかった。
「アイノの感じていることは、全部本当だと思う」
「……は?」
「ロウヒが恩人だってことも、許せないってことも。矛盾してていい。どっちかを選ばなきゃいけないなんて、誰も決めてない」
アイノが目を見開いた。それからすぐに視線を逸らし、カンテレを抱え直した。
「……変なこと言うのね、あんた」
声が少し高かった。怒っているように聞こえるときが、実は心配しているとき——ではなく、今は照れているのだとカレは思った。
やがてアイノはカンテレを抱えたまま毛布にくるまり、眠りについた。
冷たい手に教えられた温かい音楽。矛盾だらけの故郷への想いが、夜風に溶けていく。
カレは火の番をしながら、アイノの寝顔をちらりと見た。白銀の髪が頬にかかっている。カンテレを離さない指が、眠りの中でもわずかに動いていた。
この人の痛みを、少しだけ分かった気がした。




