第5話:離乳食は天界の香り? 堕天使ルシファーの究極クッキング
第6階層『傲慢なる反逆の王宮』。
ここは、これまでの怪物的なフロアとは一線を画す。白亜の大理石、黄金の装飾、そして耳を洗うような優雅な調べ。一見すると天界のようだが、その実、神への反逆を誓った者たちが集う「最も知的で、最も悪意に満ちた」地獄の心臓部である。
その豪華なダイニングテーブルの端で、私はタッパーに入った「すり潰した人参」をスプーンでかき混ぜていた。
「……管理人よ。私の王宮を、離乳食の匂いで汚すとはいい度胸だ」
玉座に深く腰掛け、美酒の入ったグラスを揺らすのは、堕天使ルシファー。
かつては天界で最も美しく輝く天使だった彼は、その美貌に相応しい残酷な眼差しで、私とパンドラを射抜いた。その隣には、漆黒の角を持つ魔王サタンが、腕を組んで黙って座っている。
「申し訳ありません、ルシファー様。パンドラももう生後数ヶ月。そろそろ『食の喜び』を教える時期かと思いまして。礼儀作法に厳しいあなたのアドバイスを頂ければと」
「ふん、礼儀だと? 傲慢こそが美徳であるこの場所で、そんな温いものを……」
ルシファーが冷ややかに言いかけた時、パンドラがテーブルをバンバンと叩いた。
「だっ! だーっ!!」
彼女の勢いで、人参の入ったタッパーがひっくり返り、ルシファーの真っ白な絹の絨毯にオレンジ色の染みが広がった。
宮殿にいた堕天使たちの呼吸が止まった。ルシファーの潔癖さとプライドを考えれば、今この瞬間、パンドラは消滅させられてもおかしくない。
だが、ルシファーは動かなかった。
彼は絨毯の染みをじっと見つめ、次にパンドラの口の周りについたオレンジ色の泥を見つめ……。
「……管理人が用意したその『餌』が、あまりに醜いのが原因だ。私の美意識が許さない」
彼は立ち上がると、優雅な手つきで指を鳴らした。
刹那、調理場から銀のトレイが次々と飛来する。
「サタン、火力を調整しろ。私が直々に『究極の離乳食』を構成してやる」
「……俺をコンロ扱いするなと言ったはずだが。まぁいい、これも契約だ」
魔王サタンが掌から漆黒の地獄の業火を放ち、ルシファーがその火を自在に操って銀の鍋を熱する。
彼らが投入したのは、エデンの園の果実の絞り汁、天界から略奪した最上級の小麦、そして若返りの秘薬をベースにした特製スープだ。
「いいですか、ルシファー様。刺激物はまだダメですよ。あと、蜂蜜はボツリヌス症の危険があるので厳禁です。一歳を過ぎるまでは……」
「黙れ! 私の創るものが不完全だとでも言うのか! このスープは、赤子の繊細な味蕾を破壊することなく、魂の格を一段階引き上げる究極のポタージュだ!」
数分後。
銀の小皿に乗せられたのは、黄金色に輝き、神々しい香りを放つ「特製・堕天使の離乳食」。
ルシファーはパンドラの目の前に座り、自ら銀のスプーンを手に取った。
傲慢を司る王が、赤ん坊を相手に膝をついている。その光景を絵画にしたら、地上の一つの宗教が崩壊しかねないレベルの衝撃映像だ。
「さあ、食せ。そして我が美学に平伏するがいい」
パンドラは、差し出された黄金のポタージュを「ぱくっ」と口に入れた。
……一瞬の静寂。
「……あうっ!」
パンドラは満面の笑みを浮かべると、あろうことか、ルシファーの手からスプーンを奪い取り、自分でもぐもぐと食べ始めた。
そして、興奮した拍子に、スープのついた手でルシファーの頬を「ぺちっ」と叩いた。
「「「「なっ……!?」」」」
宮殿にいた全ての堕天使と魔族が絶叫した。
主の美しい顔に、離乳食がこびりついている。
だが、ルシファーは静かに目を閉じ、頬を伝うスープを指で拭うと、それをぺろりと舐めた。
「……ふん。悪くない。味の判断ができるという点だけは、評価してやろう」
サタンが鼻で笑った。
「ルシファー、顔が緩んでいるぞ。プライドはどうした?」
「黙れサタン。私はただ、将来的に彼女を私を称える最高の礼拝者に育てようとしているだけだ。まずは胃袋を掴む、これは基本だろう?」
私はその様子を眺めながら、タブレットに記録を残した。
【ログ:第6階層主・ルシファーが『専属のシェフ(及び礼儀作法教育係)』に志願しました】
【パンドラのステータスに変化:称号『堕天使を跪かせる者』が追加されました】
【管理者コメント:食費が浮くのは助かりますが、彼女が将来『神への反逆』を趣味にしないかだけが心配です】
「ルシファー様、パンドラがあなたの羽を触りたがっていますが」
「……汚すなよ。一枚でも抜けたら、お前の管理ポイントを半分にするからな」
そう言いながらも、ルシファーはわざと触りやすい位置に、その美しい翼を低く降ろしてやった。
地獄の第6階層。そこは現在、世界で最も高級で、最も傲慢な「託児所」と化していた。
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