第4話:深海のお散歩、クトゥルフ様は子守唄がお上手?
第4階層『深淵の沈黙海』。
ここは、物理法則が水圧と共にねじれ、重力が「浮力」に屈した青い地獄だ。
宙に浮かぶ巨大な海水の塊の中を、光を失った異形の魚たちが泳ぎ、その最深部には、かつて地上を支配した旧支配者たちが眠る沈没都市『ルルイエ』が重なっている。
今日のパンドラは、少々ご機嫌ななめだった。
理由は明確――「寝ぐずり」である。
赤ん坊という生き物は、眠いなら寝ればいいものを、眠気が限界を超えると逆に脳が興奮し、この世の終わりのような叫びを上げる。
「……ふぎゃぁぁぁぁ!! ぁぁぁぁ!!」
第4階層の海水が、彼女の声の振動で波立つ。
私は、特注の潜水服(水圧無効・精神汚染遮断機能付き・30万ポイント)のヘルメット越しに、抱っこ紐の中のパンドラをあやしていた。
「困りましたね。第1階層の竹林も、第5階層のモフモフ(フェンリル)も効果がなかった。こうなったら『深海のホワイトノイズ』に頼るしかありません」
私がルルイエの巨大な石門をノックすると、深海特有の、低く重い響きが返ってきた。
『……何奴だ。我が永劫の眠りを妨げる、無知なる矮小生物よ……』
現れたのは、山のような巨躯に無数の触手を持ち、背にはコウモリのような翼を蓄えた、名状しがたき邪神クトゥルフ。
その姿を見ただけで、並の人間なら精神が消滅し、狂信者へと変貌する。
「お久しぶりです、クトゥルフ様。うちの娘が寝付けなくて困っていまして。あなたの『歌』を聞かせていただけませんか?」
『……我が歌? 我が呪詛は星々を狂わせ、正気という概念を粉砕する終末の旋律ぞ。それをこの、ミルク臭い幼子に聞かせろと言うのか』
クトゥルフの触手が、イライラしたように海水をかき回す。
その拍子に、隣を泳いでいた巨大海獣リヴァイアサンが「邪魔だ」と言わんばかりに尻尾でクトゥルフを小突いた。深海の神々による小競り合い。それだけで、地上なら巨大地震が発生するレベルの衝撃波が広がる。
「……ぁ、う?」
だが、その衝撃がパンドラには心地よかったらしい。
彼女は涙を浮かべた目で、ゆらゆらと動くクトゥルフの顎の触手を見つめた。
「ほら、パンドラ。あのおじさんの髭、面白い形をしてるよ」
『お、おじ……髭だと!? 我は深淵の主……』
「クトゥルフ様、お願いします。今、彼女に泣き喚かれると、最下層のアザトース様がまた起きかけます。いつぞやの二の舞ですよ」
私の言葉に、クトゥルフはピタリと動きを止めた。
アザトースという名には、流石の旧支配者も逆らえない。
『……よかろう。ただし、この幼子の精神が崩壊し、次元の狭間に溶けても我は知らんぞ』
クトゥルフは巨大な口を開き、その深淵から「音」を放った。
『ふんぐるい・むぐるうなふ・くとぅるふ・るるいぇ・うが=なぐる・ふたぐん……』
それは、人間の耳には「不快な摩擦音」と「深海の地鳴り」を混ぜ合わせたような、不気味な不協和音だった。
私のヘルメットの精神防壁ゲージが、みるみるうちに削られていく。流石にキツイ。
しかし。
「……う、ん……」
パンドラは、その「宇宙的な不協和音」を聞いた瞬間、ピタリと泣き止んだ。
それどころか、クトゥルフの触手の一本を小さな手で「ぎゅっ」と掴み、心地よさそうに目を細め始めたではないか。
『……な、何!? 我が狂気の賛美歌を、子守唄として受容しているというのか!?』
「どうやらクトゥルフ様の超低周波が、パンドラには『お腹の中にいた時の音』に聞こえるみたいですね。相性が良くて助かりました」
『我が……我が究極の呪詛が、胎内音扱い……!?』
クトゥルフは大きなショックを受けたようだったが、パンドラが自分の触手に頬をすり寄せ、「しゅきー……」と寝言を漏らした瞬間、すべての触手がフニャリと弛緩した。
『……ふん。致し方ない。寝付くまで、このままにしておいてやろう』
それから数時間。
宇宙の支配者たる邪神クトゥルフは、小さな赤ん坊のために、その巨体をゆらゆらと揺らし、繊細な振動で「子守唄(重低音バージョン)」を歌い続けた。
隣でリヴァイアサンが「俺の背中も貸してやろうか?」という顔で寄ってきたが、クトゥルフは「今は静かにしろ」とばかりに触手で制した。
私はその光景をタブレットで撮影し、ログを更新する。
【ログ:第4階層主・クトゥルフが『専属の音楽教師(重低音担当)』に就任しました】
【パンドラのステータスに変化:称号『深淵を眠らせる者』が追加されました】
【管理者コメント:クトゥルフ様の精神的ダメージが心配ですが、育児の質は向上しました】
「おやすみ、パンドラ。明日からは、第6階層のルシファー様が『離乳食のテーブルマナー』について講釈を垂れたいそうだよ」
静かな深海。
邪神の腕の中でスヤスヤと眠るパンドラ。
地獄の垂直都市は、今日、また一歩「理想の保育園」へと近づいた。
更新通知を受け取りたい方は、ぜひブックマークをお願いします!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!




