第3話:地獄のベビーサークル、フェンリルの背中の上で
第5階層『凍てつく終末の荒野』。
ここは、あらゆる生命の「熱」と「希望」が剥奪される絶対零度の領域だ。
吹き荒れる吹雪は、鋼鉄さえも一瞬で脆いガラスへと変え、広大な氷原には、主神オーディンを食い殺すと予言された巨大な狼、フェンリルが横たわっている。
本来なら、神々ですら足を踏み入れるのを躊躇うこの絶望の極致に、私は今、一台のベビーカー(全地形対応・耐魔法防壁仕様・20万ポイント)を押して立っていた。
「……寒い、寒いぞ管理人。貴様、我を殺す気か」
隣でガタガタと震えているのは、第3階層の主、ベルゼブブ様だ。
なぜ彼がいるのかといえば、先日のおしゃぶり代(5万ポイント)の貸しを、今日一日の「子守の補助」でチャラにするという契約を結んだからである。
「ベルゼブブ様、文句を言わないでください。パンドラにはちゃんと『常夏暖房結界』をかけてありますから。ほら、見てください。彼女、ぐっすりですよ」
ベビーカーの中で、パンドラは鼻提灯を膨らませて眠っている。
最強の吹雪も、彼女の周囲1メートル以内では、そよ風程度の微風に変換されるよう設定済みだ。
「貴様の過保護ぶりには反吐が出る……。それより、なぜこの階層に来た。あの『終末の狼』に何の用だ」
「パンドラが最近、寝返りを打つようになりましてね。床が硬いと危ないので、最高級のプレイマット……つまり、フェンリル様の抜け毛が欲しいんです」
「……貴様、死にたいのか?」
ベルゼブブが真顔で引き返そうとしたその時。
グオオオオオォォォン……。
大気を震わせ、氷河を叩き割るような咆哮が響いた。
雪煙の向こうから、二つの巨大な、黄金色の眼光が我々を射抜く。
フェンリルが、その巨体を起こしたのだ。彼がひとたび口を開けば、上顎は天を突き、下顎は地を噛む。まさに世界の終わりそのものの姿。
『……何奴だ。我が眠りを妨げる、不遜なる羽虫どもは』
声だけで心臓が止まりそうな振動。ベルゼブブのハエたちが恐怖で次々と氷像に変わっていく。
だが、私は動じない。タブレットで「交渉用翻訳ログ」を立ち上げ、一歩前に出た。
「お久しぶりです、フェンリル様。本日はご相談が。そちらの、換毛期で余っている冬毛を少々、私の娘のために譲っていただけないでしょうか?」
『……毛? 我が誇り高き毛皮を、人間の種子ごときのために? 狂ったか、管理人。今すぐ貴様らごと、この世界の熱と共に食い尽くしてくれよう』
フェンリルが牙を剥く。その瞬間、絶対零度の冷気が爆発的に膨れ上がった。
――が。
「ふぁ……あぅ?」
その殺気の渦中で、パンドラが目を覚ました。
彼女は眩しそうに目をこすると、ベビーカーから身を乗り出し、目の前にある「巨大なモフモフした何か」を見つめた。
『……ぬ?』
フェンリルが動きを止める。
パンドラは、恐怖を感じるどころか、その黄金の瞳をキラキラと輝かせ、小さな両手を突き出した。
「わんわん! っきー!」
満面の笑み。そして、一点の曇りもない歓喜の叫び。
彼女にとって、世界を滅ぼす魔狼は、ただの「大きなワンちゃん」に過ぎなかった。
『……我が名、フェンリル。神々を屠り、ラグナロクをもたらす牙ぞ。それを、わん……わん……?』
狼の王は困惑した。
これまで彼に向けて投げられたのは、恐怖、憎悪、あるいは呪いだけだった。こんなにも真っ直ぐな「好意」を向けられたのは、数千年の歴史の中で初めてのことだった。
「フェンリル様、見てください。彼女、あなたの毛並みがとっても気に入ったみたいですよ。どうでしょう、プレイマットと言わず、彼女を少し背中に乗せていただけませんか?」
『ふ、ふざけるな! 我が背に乗れるのは、死せる魂の軍勢のみ……』
「パンドラ、あっちのワンちゃんの背中、ふわふわしてそうだよ?」
私がパンドラをベビーカーから抱き上げると、彼女は空中で手足をバタバタさせて喜んだ。
フェンリルは鼻息を荒くして威嚇し続けたが、近づいてくるパンドラの、ミルクのような甘い匂いと温かな体温を感知した瞬間――。
……ドサッ。
巨大な狼が、その場に伏せをした。
『……勘違いするな。あまりに騒がしいゆえ、黙らせるために近くに来ることを許しただけだ。もし我が背を汚せば、その瞬間に噛み殺す』
明らかに照れ隠しの咆哮。
私は笑いを堪えながら、パンドラをフェンリルの首元、一番毛が柔らかい部分にそっと置いた。
「きゃははっ! ふわー! ふわー!」
パンドラは歓喜の声を上げ、フェンリルの剛毛に顔を埋めた。
神々の鎖さえ引きちぎった最強の狼の体が、パンドラが動くたびに、ぴくぴくと小刻みに震えている。
『……くっ。……む、擽ったい。よせ、そこは……っ。……ふん、まぁ、ぬくもりだけは認めなくもない』
ベルゼブブが呆れ果てた顔で呟く。
「……信じられん。あの終末の狼が、ただの『巨大なクッション』に成り下がっている」
「フェンリル様、ついでにその辺に落ちている抜け毛、回収してもよろしいですね?」
『勝手にしろ……。あと、管理人。……来週も、その種子を連れてこい。退屈しのぎに、雪遊びの相手くらいはしてやらんでもない』
私は黙々と毛を拾い集め、タブレットを操作した。
【ログ:第5階層主・フェンリルが『パンドラの乗り物(大型犬)』として登録されました】
【新アイテム作成:『魔狼の毛皮製・最高級プレイマット』が完成しました】
【パンドラのステータスに変化:称号『神殺しの飼い主』が追加されました】
「さあ、パンドラ。帰ってお昼寝にしよう。今日はいいお土産ができたね」
帰り際、パンドラは名残惜しそうにフェンリルの鼻先に「ちゅっ」とキスをした。
その瞬間、第5階層の吹雪が止まり、氷原に一瞬だけオーロラが輝いたのを、私は見逃さなかった。
地獄の垂直都市に、また一つ、攻略不可能な「癒やしスポット」が誕生した瞬間だった。
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