特別編1:深淵点検ツアー! ~はじまりの門、朱き竹林の再会、そして咆哮の断崖~
天界での「神の法廷」を巡る戦いが終わり、私たちは住み慣れた『終焉の垂直都市』へと帰還した。
管理事務所の執務机に座り、私は使い慣れた『管理端末』を起動する。かつてこのダンジョンの理を司るために作られた魔法の板は、帰還した途端、溜まりに溜まった異常報告を吐き出し始め、画面には真っ赤な警告文字が並んでいた。
「……はあ、予想はしていたけれど、これはひどいな」
私が溜息をつくと、銀色の髪を揺らしながら12歳になったパンドラが、横から画面を覗き込んできた。その後ろでは、ルルが天界の布で作った包みに、お土産の「魔力の実」を詰めて背負っている。
「パパ、なんだかその板、すごく怒ってるみたい。……おじちゃんたちがみんなでお空に行っちゃったから、お家が寂しかったのかな?」
「そうだね、パンドラ。管理人が不在なだけでなく、各階層の主までいなくなってしまったから、ダンジョンの生態系が混乱しているんだ。地上の学園が休みに入った今のうちに、足元をしっかり固めておかないとね」
私は端末を抱え、パンドラとルルを連れて「全階層一斉点検」を開始した。
まずは、すべての始まりの場所である「第0階層」へ降りる。
そこは地上と深淵を繋ぐ唯一の接点であり、12年前、私が箱に入れられた赤ん坊のパンドラを拾い上げた運命の場所だ。当時は荒れ果てた石造りの門がそびえ立つだけの、冷たく乾いた風が吹き抜ける絶望の入り口だった。
しかし、今の光景は、一言で言えば「パンドラ記念聖域」に近い。
パンドラが拾われた地点には、ルシファー様がどこからか発掘してきた白磁の石で造られた、幼い頃のパンドラを模した像が鎮座している。その周囲には、今回の遠征で天界から持ち帰った『生命の滴の噴水』が設置され、清らかな水音を響かせていた。
「わあ、噴水さん、ここに来たんだね! お水がキラキラしてて、とっても綺麗!」
パンドラが駆け寄り、その透き通った水に手を浸す。この水は触れるだけで傷を癒やす神聖な力を持っている。かつては血と鉄の匂いしかしなかった入り口が、今やパンドラのための憩いの場へと作り替えられていた。
ルルはその横で、水面に映る自分の姿を眺めながら、影の腕を伸ばして噴水の中に魔力の塊を沈めていた。
『……パパ。……このお水、冷たくて、気持ちいい。……これでスープ作ったら、きっと、お腹が、幸せになる』
私は端末に「第0階層:異常なし。ただし、噴水の水で洗濯をしようとしているオークを発見、厳重注意」と入力し、次なる場所へ向かった。
次に向かったのは、第1階層『怨嗟の竹林』だ。
ここは日本三大怨霊の一柱である崇徳上皇が統べる、呪いに満ちた和風の迷宮だ。空からは血のような赤い雨が降り注ぎ、霧の中に迷い込んだ者は自らの過去の罪を聞かされ続けるはずだった。
鳥居をくぐり、私たちが竹林の奥へと足を踏み入れると、そこには案の定、上皇様本人の姿があった。天界ではあんなに暴れていた上皇様だが、今は狩衣の裾をまくり上げ、自慢の霊力を込めた鍬を手にしている。
「ほっほっほ! 待っておったぞ管理人、そして愛しのパンドラよ。天界の戦い以来、少し腰にきておってな。こうして土をいじるのが一番の養生よ」
竹林の半分が切り開かれ、そこには赤い雨の成分と上皇様の魔力を吸収して育った、燃えるように真っ赤な「霊力イチゴ」の農園が広がっていた。パンドラが地上の学園へ通うようになってから、上皇様は「パンドラが帰ってきた時に最高のお菓子を作ってやりたい」という一心で、怨嗟の力を農業へと転換させてしまったのだ。
「じーじ! これ、全部イチゴなの? すごーい、甘い匂いがする!」
「左様。わしらが天界へ行っておる間、残された天狗どもが寂しがって竹をなぎ倒しておってな。しつけ直すついでに、農園を広げさせたのじゃ」
上皇様の言葉通り、空からは天狗たちが籠を抱えて急降下してくる。かつては攻略者を嘲笑していた彼らだが、今は「パンドラ様のために一番赤い実を摘むのだ!」と必死な形相で収穫に励んでいる。
私は、本来の「絶望ポイント」を回収するはずのシステムが、完全に「イチゴ栽培システム」に書き換えられている現状を端末に記録した。
さらに下層、第2階層『荒れ狂う嵐の獣道』へと進む。
ここは怪物の王テュポーンが支配する、火山と暴風雨の階層だ。高低差の激しい断崖絶壁が続き、本来なら隠れる場所すらない地獄のような戦場である。
「おお、管理人か! 待ちかねたぞ。見ての通り、火口に溜まった熱が暴走してしまってな。調整に手こずっていたところだ」
巨大な百の蛇の頭を持つテュポーンが、落ち着いた、しかし重厚な声で私に語りかけてきた。かつて神々を相手にその巨体で大暴れしていたが、知性ある怪物の王として、言語を解し、私たちと対等に会話ができる存在だ。
そこで、主の圧倒的な火力を制御できなくなった階層の魔物たちは、ある「活用法」を思いついたらしい。断崖の至る所に、溶岩熱を利用した天然の「深淵式サウナ」と「露天岩盤浴」が整備されていたのだ。
「おじちゃん、これあったかーい! お外は嵐なのに、ここはポカポカだね!」
パンドラが岩盤に腰を下ろすと、テュポーンの頭の一つが、優しく鼻先で彼女の背中を押し、マッサージの真似事を始めた。
「……ふむ。パンドラに喜んでもらえるなら、このまま観光名所にするのも悪くない。ただ、学園の送迎バス代わりに頭を数本貸し出している間、残った頭たちが嫉妬して噴火を繰り返すのは困りものだがな」
テュポーンは苦笑混じりにそう言った。以前は雷火で地形を破壊するのが仕事だった彼も、今や「パンドラのための快適な温度調節」を追求する名人と化している。
地獄の入り口から第2階層まで。
かつての絶望に満ちた垂直都市は、パンドラという光を中心に、あまりにも歪で、しかしどこまでも温かい、独自の進化を遂げていた。私は端末の画面に「点検完了:各階層主、育児モチベーションは極めて高いが、本来の役割を忘れかけている」と一言添え、次なる深淵、ハエの王が待つ第3階層へと歩みを進めるのだった。
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