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【絶望セーブ】深淵ダンジョンの管理人、捨て子のパパになる 〜最強魔王たちと育てる、パンドラの箱の最後の希望〜  作者: beens
第1章:乳幼児編

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第1話:赤ん坊の泣き声は、アザトースの夢を破る

 静寂。それが、このダンジョン『終焉の垂直都市』におけるデフォルトの状態だ。

 時折、侵入者の末路を告げる短い悲鳴や、巨大な怪物の骨が軋む音が響くことはある。だが、それらはすべて「予定された音」であり、この完璧に管理された地獄の調律を乱すものではなかった。

 あの日までは。

「ふ、ええええええええええん!!」

 突如として、管理事務所――かつては死霊の溜まり場だった石造りの一室――に、この世の終わりを告げるような高音の爆音が炸裂した。

 パンドラ。私が拾ったその赤ん坊が、肺活量のすべてを使い切る勢いで泣き始めたのだ。

「……おっと」

 私は手元の因果律操作端末タブレットを落としそうになった。

 画面には、【警告:周辺領域の精神汚染数値が異常上昇中】の文字が点滅している。原因は明らかだ。この純真無垢な泣き声は、負の感情を糧とするこのダンジョンの住人たちにとって、猛毒に等しい「正のエネルギー」を孕んでいるからである。

「よしよし、パンドラ。何が不満だい? おむつか? それとも空腹か? それとも、壁に埋まっている嘆きの魂たちの視線が怖いかな?」

 私は彼女を抱き上げ、慣れない手つきで背中をさする。

 だが、泣き止む気配はない。それどころか、声のボリュームはさらに一段階上がった。

 その時だった。

 事務所の重厚な扉が、物理法則を無視して内側から「腐り落ちた」。

「……管理人よ。何事だ、このおぞましい不協和音は」

 現れたのは、第3階層の主、ベルゼブブだった。

 ハエの羽のようなマントを羽織り、貴族のような礼服に身を包んだ「腐敗の王」。彼の周囲には、常に数億の不可視のハエが舞い、触れるものすべてを腐食させる。

「ああ、ベルゼブブ様。見ての通り、パンドラがご機嫌ななめでして。何か良いあやし方をご存知ありませんか?」

「知るか! 我が階層の住人たちが、この声を聞くたびに『浄化』されて消滅しかけておるのだぞ! 私のハエたちが……私の可愛い眷属たちが、清らかな音色に耐えきれずボトボトと落ちていくのだ!」

 ベルゼブブは憤慨していた。彼のような高位の悪魔にとって、赤ん坊の泣き声は、聖水(強力な酸)を耳から流し込まれているようなものなのだろう。

 だが、問題はそれだけではなかった。

 ズズッ、ズズズ……。

 事務所の床、いや、空間そのものが波打ち始めた。

 壁が不定形に溶け出し、幾何学的にあり得ない角度で歪んでいく。

「いけない」

 私は顔を引きつらせた。

 この現象には心当たりがある。最下層に眠る「盲目なる混沌の核」アザトース。この宇宙の夢を見ているとされる絶対神の意識が、パンドラの泣き声によって「覚醒の兆し」を見せているのだ。

「ベルゼブブ様、文句を言っている場合ではありません。アザトース様が寝返りを打ち始めました。このままではダンジョンの全階層が、彼の夢の終焉と共に消失デリートされます」

「な、何だと!? あの白痴の王を目覚めさせるとは、この小娘は何者だ!」

「私の娘です」

 私はきっぱりと言い放ち、タブレットを高速で操作した。

 【メニュー:ショップ】→【カテゴリー:育児・衛生】→【アイテム:超次元消音おしゃぶり(聖水コーティング)】。

 消費ポイントは……5万ポイント。

 先週、一つの帝国を滅ぼして得た絶望ポイントが、一瞬で吹き飛んだ。

「……経費で落ちるかな、これ」

 私は実体化した「虹色に輝くおしゃぶり」を、全力で泣き叫ぶパンドラの口に優しく差し込んだ。

 刹那。

 喧騒が消えた。

「…………ぷはっ」

 パンドラが、おしゃぶりをちゅぱちゅぱと吸い始める。

 すると、空間を侵食していた混沌の歪みが、潮が引くように収まっていく。最下層から響いていた不気味な地鳴りも止まった。どうやらアザトース様は、再び心地よい二度寝の淵に沈んでくれたらしい。

「ふぅ……。危なかった。ダンジョン全滅の危機を救ったのは、5万ポイントのおしゃぶりでしたね」

 私が額の汗を拭うと、ベルゼブブが呆然とした様子でパンドラを覗き込んでいた。

「……これが、人間の子か。これほどまでに脆く、それでいて世界を揺るがすほどの……」

「そうですよ。ですからベルゼブブ様。彼女の睡眠を妨げないよう、第3階層の換気扇、もう少し静かなものに交換してもらえますか? 騒音で彼女が起きると、次はアザトース様が完全に目を覚ますかもしれません」

「なっ……貴様、私に命令するのか!? 腐敗の王であるこの私に!」

「いえ、ご相談です。『娘が健やかに眠れる環境づくり』にご協力いただければ、次回の定例会議で、あなたの階層への『高品質な死体』の供給量を2割増やしましょう」

 ベルゼブブは、屈辱に震えるかと思いきや、パンドラの小さな手がおしゃぶりを握りしめる様子を見て、ふっとハエの羽を休めた。

「……ふん。致し方あるまい。会議の調整を円滑に進めるための……投資だ。勘違いするなよ、管理人」

 そう捨て台詞を残し、彼は腐敗の霧となって消えていった。

 嵐の去った事務所。

 私は、おしゃぶりを吸いながらスヤスヤと眠りについたパンドラを、再び籠へと寝かせた。

「おやすみ、パンドラ。明日からは、第1階層の崇徳上皇様に『お食い初め』の相談をしに行かないといけないからね」

 私は再びタブレットを手に取り、山積みの業務リスト(と、育児スケジュール)を確認する。

 最強の魔王たちが君臨するこのダンジョンで、彼女が最初に打ち負かしたのは、神でも勇者でもなく、全階層を統括する「静寂」そのものだった。

 管理人の日常は、これまで以上に多忙になりそうだ。

 だが、窓のない暗い部屋で、スースーと聞こえる赤ん坊の寝息は、どんな絶望ポイントよりも私の心を穏やかに満たしていた。

「……さて。次は第5階層のフェンリルに、ベビーベッド用の『抜け毛』を要求しに行きますか。最高級の毛皮ファーになりそうだ」

 地獄の管理人は、苦笑しながら、パンドラの頬を優しく突いた。

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