プロローグ:地獄の玄関、あるいは揺り籠
「……あー、第2階層のテュポーン様、また火山弾の飛距離を誤りましたね。第3階層の湿地帯にまで火の粉が飛んで、ベルゼブブ様から苦情が来ています」
私は手元のタブレット(地獄の因果律操作端末)を指でスライドさせながら、深くため息をついた。
私の職業は「管理人」。
世界で最も恐ろしく、最も深淵に近いとされるダンジョン『終焉の垂直都市』の運営を任されている事務員だ。
上を見上げれば、空を覆い尽くす巨大な狼・フェンリルの牙が見える。下を見れば、星をも呑み込む海獣リヴァイアサンが泳ぐ底なしの暗淵が広がっている。
この場所では、悲鳴は「音楽」であり、絶望は「エネルギー」だ。
侵入者たちが、あまりの恐怖に心を折ったその瞬間――【絶望セーブ】が発動する。彼らはその絶望の地点から二度と逃れられず、何度も同じ恐怖を味わい、そのたびに私の手元のポイントカウンターが『チャリン』と心地よい音を立てる。
「さて、今日のポイント収支は……。聖騎士団の壊滅でかなりの額が入りましたね。これで第4階層の浄水フィルターを新調できそうだ」
実務的な思考で頭をいっぱいにしながら、私はダンジョンの入り口、通称『第ゼロ階層』へと足を向けた。
ここは、地上の「現実」と、この「異界」が交差する境界線。
時折、神隠しにあった人間や、不法投棄されたゴミ、あるいは命知らずの冒険者が転がり込んでくる場所だ。
そこで私は、それを見つけた。
「……?」
薄暗い入り口の隅。怨念の霧が立ち込める石畳の上に、不釣り合いなほど柔らかな編み籠が置かれていた。
また、ろくでもない呪物でも捨てられたのか。
そう思いながら近寄った私の耳に、かすかな、しかしはっきりとした「声」が届いた。
「ふぎゃ……あ、あー……」
籠を覆っていた布が、内側から小さな手によって跳ね除けられる。
中にいたのは、白く、柔らかく、そしてあまりにも無防備な――人間の赤ん坊だった。
私は、無意識のうちにタブレットをポケットにねじ込んでいた。
管理官として長年培ってきた「冷静なリスク管理」が、脳内で警報を鳴らす。
『排除すべきです。これはポイントになりません。維持費の無駄です。魔王たちのストレス要因になります。ただちに廃棄するか、第1階層の怨霊たちに引き渡すべきです』
だが、その赤ん坊は、私の顔を見るなり、ぱあっと花が咲くような笑顔を見せたのだ。
漆黒の霧が立ち込めるこの地獄で、それだけが、まるで太陽の光を切り取ってきたかのように輝いて見えた。
「……参りましたね。これは、運営計画にはなかったイレギュラーだ」
私がその子を抱き上げた瞬間。
背後に、冷ややかな、しかし山をも震わせるほどの威圧感が立ち上った。
「管理人よ。何を拾った」
振り返ると、そこには第1階層の主、崇徳上皇が立っていた。
血の涙を流し、大天狗の翼を広げたその姿は、常人なら見ただけで心臓が止まる。
「上皇様。定例会議の時間にはまだ早いですが」
「そんなことはどうでもよい。その腕にある、煮ても焼いても食えぬほど微かな命……何をするつもりだ。我が階層の餌にするか?」
上皇の眼光が鋭くなる。
普段の私なら、「合理的判断により処理します」と答えていただろう。
だが、私の指をぎゅっと握りしめてきたその子の体温が、驚くほど熱かった。
「……いいえ。これは、私の『私物』として管理します」
「なに?」
「本日から、このダンジョンの福利厚生費を一部削り、この子の育成費に充てます。文句がある階層主には、私が直接説明に伺います」
私の声に、ダンジョン全体の空気が一変した。
各階層に潜む魔王たちが、私の宣言を聞き、どよめき、あるいはあざ笑い、あるいは興味深そうに視線を送ってくるのがわかる。
管理人は、ただの事務員だ。
だが、この地獄を「管理」し、彼らに「居場所」を与えているのは、他ならぬ私なのだ。
私は籠の中から一枚の汚れた紙切れを拾い上げた。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
『この子に、希望を』
「希望、ですか」
私は赤ん坊を見つめ、少しだけ口角を上げた。
絶望を食らって肥大し続けるこの垂直都市の最深部に、最も場違いなものを持ち込んでしまった。
「今日から、お前の名前は『パンドラ』だ。いいかい、ここは怖くない。……パパが、世界で一番安全な地獄にしてあげるからね」
その瞬間、ダンジョンのシステムメッセージが私の脳内に直接響いた。
【警告:システムに予測不能なエラーが発生しました】
【新規プロジェクト:『娘の育成』が開始されました】
【現在の絶望ポイントを……全て『愛情ポイント』に変換しますか?】
私は迷わず「YES」をタップした。
こうして、世界で最も「最恐」で、世界で最も「騒がしい」子育ての幕が上がったのである。
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